ゴミを拾う人
歯の治療
中央アジア4カ国ツアー記11:キルギス編 その7 キルギス2日目の2 カラ・コル市内観光
中央アジア4カ国ツアー記10:キルギス編 その6 キルギス2日目の1 朝の散策
ワイン・パーティー
コーカサス3国ツアー記52 :アルメニア編10 十日目 その5 ガルニ神殿~エレバン
コーカサス3国ツアー記38 :グルジア編17 八日目 その1 ゴリに向かう
コーカサス3国ツアー記25 :グルジア編4 五日目 その6 ワイナリー見学
ベトナム紀行:10 第二日目 その3 フエ(トゥドゥック帝廟とチェックイン後の町の散策)
東海道ウォーク:関宿から土山宿まで 3
昨日のことだった。
駅に向かう幅5~6mくらいある歩道を歩いていた時だった。
その歩道のすぐ脇には横浜新道と言う自動車専用道路が走っていて、その周辺には住宅は建っていなかった。
そのような周囲の環境のところで、前方20~30m先に年配の男性と思しき人の姿があった。
その男性、ゆっくりと右に行ったり左に行ったりしながら時々足を止めて前屈みになっていた。
その動きを見て多少は妙に思ったが、年寄りならそう言うこともあるのかもしれない、くらいのことを思った。、
そしてそのまま歩いて行くと、その男性は長靴を履いていてトングの柄の長いようなものを右手に持って、それで歩道上に落ちているタバコの吸い殻を挟んで反対側の手に持っている袋に入れているのが見えた。
またその袋には空き缶のようなものも入っているのが見えた。
(この辺りには住宅がないから、どこか近所の人がボランティアで歩道に落ちているゴミを拾っているのかぁ~)と思った。
そう思っていると、前方から60代くらい別の男性が歩いて来た。
その男性はリュックを背負ってキャップを被っていたが、ゴミを拾っている男性に近づくと足を止めて、キャップを取って深々とゴミを拾っている男性に向かって頭を下げた。
そして、その後はすぐに何事もなかったかのように再びキャップを頭に被ってこちらに向かって歩き始めていた。
(知り合いかなぁ~、、、しかしこの辺りは元々人通りが多いし、住宅はないからこんなところで知り合いの人の会う確率は相当低いだろうになぁ~、、、それに知り合いなら、多少なりとも会話があるだろうなぁ~~)
そう思ったら、もしかしてボランティアでゴミを拾っている人に感謝の意味で頭を下げたのかもしれないと思った。
そうだとすると、ゴミを拾う人、頭を下げる人、、、
何だかいい場面を見たような感じがして、気持ちが良くなった。。。^_^;
先週の金曜日の朝食の時に、奥歯に触れた舌先で「穴」を感じたので、(あれ?、歯に詰めたあったものが取れたのかな?)と思って、夕方午後6時半までやっていると言う行きつけの歯医者に午後5時半の頃に行ったが、その日は午後5時で終わり、、、と言うことで、敢え無くすごすごと帰って来ることになった。
それで、診察の予約だけでも、、、と言うことで診療の予約をとって、今日の診察となった。
・・・
名前を呼ばれて診察室に入って治療のための椅子に座って、少し待っていると先生がやってきて、、、
「どうしました?」と聞くので、
「上の奥歯に詰めてあったものが取れてしまったようで・・・」と言うと、先生は、
「口を開けてください」と言って、直径2cmくらいの小さな丸い鏡が先端についた治療器具を口に入れて来た。
すると、、、
「あ、、、詰めたものが取れたんじゃないですね、これは虫歯です。」と言うではないか!
(え!?、、、ど~言うこと?)と思っていると、先生は、
「詰めた金属はちゃんと残ってますよ。虫歯になっていて、金属の下が大きく空洞になってしまって、残っていた歯が何かのきっかけで欠けてしまったんです」と言うではないか!
診察台の上に寝かされて、あんぐりと口を開けた状態でそんな話を聞いて、正直驚いてしまった。
(えっ!? 穴が開いたのは金属が取れたんじゃなくて、その下にあった自分の歯が欠けて出来た穴ってこと!?、、、で、その原因は、虫歯?)
以前虫歯の治療をして、その後に金属を詰めておけば、もう安心、、、と思っていただけに、治療をしたところがその中で虫歯になってるなんて、信じられなかった。
診察・治療の後に先生に説明を聞いたところ、治療をした後金属で詰め物をしても、その金属と歯の間から虫歯菌が入って、歯の中から虫歯になることがあると聞いて、何だか恐ろしくなってしまった。
ところで、治療はと言うと・・・。
まずはレントゲンを撮って、その結果を見てと言うことで、レントゲンの結果を数分待って、再び治療が再開した。
その後「痛かったら、言ってください」と先生は言って、何だかわからないが、先生は口の中に治療器具を入れてガリガリとやりだした。
時々、ビビッと痛みを感じたことがあったが、それほど大きな痛さは感じなかった。
治療が終わった後先生から説明からあった。
それによると、前回の治療の後に詰めた金属の下が虫歯になっていてボロボロになっていたが、神経はまだ生きているようで、微妙なところにある状態とのことだった。
それで、歯が少しでも再生すれば神経をいじることなく治療ができるので、今日のところはカルシウムを詰めておいたと言うことだった。
この状態で一週間ほど様子を見て、歯が再生しているようであれば、それに応じて治療をすると言うことだった。
最近、「歯は再生する」と言うことを医療系の情報番組をテレビで見たことがあるが、ホントなんだろうか?
と思いつつ、一週間様子を見ることにした。
それで診察室を出る際に先生に「普通に食事をして大丈夫なんでしょうか?」と聞いたら、
「セメントでとめてあるだけなので、固いものを噛んだりしたらセメントが取れることもあるので、そうしたらまたそこに穴が開いてたいへんなことになるので注意して下さい」と言われた。
なるほど、、、そ~言うことね、、、。
しかし、一週間もセメントが摂れないように注意しながら食事をするんなんて、、、
厳しいねぇ~~^_^;
・・・
簡単な治療で終わると思っていただけに、ショックはかなり大きかったね、、、とほほ。(T_T)

朝の9時にホテル「アミール」を出発しようとすると、ホテルのスタッフが入口前に出て来て、我々を見送ってくれた
日本では宿の人が出発時に見送ってくれることはしばしばあるが、海外でこのようなことを経験したことは、記憶の中ではなかった。
・・・
カラ・コルの町カラ・コルの町については、「地球の歩き方」に次のように書かれていた。
カラ・コル:イシク・クル湖の東端に位置する町。 湖から約9km、海抜1690~1990mで、テルスケイ・アラ・トーと天山山脈の山々への登山基地の町。
氷河を頂く山々がぐっと迫り、天山山脈の最高峰ボベダ(勝利峰)7439mへの登山口でもある。 1860年代にロシア人やウクライナ人たちが町を築き、その後弾圧を逃れて中国から中国系ムスリムの回族(ドゥンガン人)とウイグル人が移り住んだ。と言うことで、ホテルを出るとカラ・コル市内の観光へと向かった。
ロシア正教の三位一体教会カラ・コルの市内観光で最初に向かったのは、「ロシア正教三位一体教会」だった。

バスを降りて歩いて行くと、目の前には木造の建物が見えて来た。
屋根は緑色をしていてその上には金色の頭を付けているが、建物本体は木造でシンプルな造りに見えた。
キルギス国内には、ロシア帝国時代に既にロシア人がかなり移住して来ていて、その頃にロシア正教会が建てられた。 が、その後のソ連時代になると、基本的には宗教は否定されていたので、イスラム教に限らずロシア正教も公に宗教活動をすることが出来なくなったと言う。
そのため、ここの三位一体教会も、時代によっては市役所として使われたり倉庫として使われたりしたと言う。
その後、1985年から再びロシア正教会として使われるようになり現在に至っていると言うことだった。

建物の前には畑があって、そこでここで使われる作物が栽培されていると言う。
そして少し離れたところには別棟の建物があって、そこには図書室や食堂があるとのことだった。
自給自足、と言うことなんだろうか。

そして、正面の入口から時々人が入って行くので中に入らせてもらった。
一般的にキリスト教の教会に入るには、男性は脱帽しなければいけないことになっているはずだったので、女性も気を利かせて?帽子をとって中に入って祭壇の前で祭壇を見ていると、教会の係りの女性がやって来た。
そして、ロシア語だと思しき言葉で何やら女性達に話をし始めた。
一体何を話しているのか最初はわからなかったが、その様子から、ロウソクが立てられている台の辺りから前には出てはいけない、と言うことを言っているのではないかとわかった。
それで念のためガイドのエルメックさんを呼びに行ってそれまでの経緯を話すと、エルメックさんが来てくれた。
そしてその教会の女性が言うことを通訳してくれた。
すると、やはりそのようなことを言っていたことと、女性は教会の中では髪を出してはいけないので、帽子を被るかスカーフで髪を覆うようにと言っていたことがわかった。
ロシア正教ではそうなのか?、、、初めての経験なのでよくわからないが、ここではそのようだった。
その後その女性は、我々が日本から来ていることをエルメックさんに確認してそうだとわかると、今回の日本の地震と津波被害について心を痛めていると言っているとのことだった。
それで、その津波の被害に対してロウソクを立てて下さいと言われた。
と言うことで、代表として実際に津波が自宅の間近まで迫って来たと言う千葉のSさんがロウソクに火を点けて、燭台に立てさせてもらった。
日本の津波のことで、中央アジアの片田舎のようなキルギスの奥の町の教会で、このような対応を受けるとは考えてもみなかった。
ドゥンガンモスク
ロシア正教会を出ると、次には「ドゥンガンモスク」に向かった。
このドゥンガンモスクは、19世紀にドゥンガン人の寄付によって建てられたイスラム教の寺院でカラ・コルの中央モスクになっていると言う。
ドゥンガン人とは、カザフスタンやキルギス国内に住んでいる中国系ムスリムで、キルギス国内ではキルギス人、ロシア人に次いで多い民族と言う。
そして見た目は中国の漢民族との混血が進んでいるためか、漢民族に近い顔立ちをしているらしい。

そのモスクを見ると、外観はカラフルな色合いでそれほど大きな建物ではなかったが、柱が44本もあるとのことで、何と、釘が一本も使われてない教会とのことだった。
そして、その外観はどことなく中国風と言った感じがした。
モスクの中を見学させてもらおうと思ったが、この日はちょうど金曜日で金曜日の礼拝が行われるためモスクの中に入れないと言われてしまった。
そう言えば、ミナレットの上にはスピーカーが見えていたが、今朝、アザーンが聞こえたと言う記憶はなかった。
ガイドのエルメックさんに聞いたところ、アザーンは毎朝流れているので、たまたま聞こえなかったんでしょうとの答えだった。
プルジェワルスキー博物館
ドゥンガンモスクの後は、「プルジェワルスキー博物館」の見学をした。
入口のところには、ロシア人風と言うか、明らかにスラブ系と思しきガイドの女性が待っていて、館内に入るとプルジェワルスキーの5回の探検ルートと経過について詳しくロシア語で説明してくれた。
説明の後聞いてみると、その女性はロシア人ではなくウクライナ人だが、キルギスで生まれ育ったウクライナ人と言うことだった。

プルジェワルスキーとはソ連の探検家で、当時鎖国をしていて外国人が立ち入りが出来なかったチベットを目指して、5回の遠征をしたと言う。
そしてカラ・コルの町はその探検の拠点となった町で、ソ連時代は軍事拠点ともなっていて、彼の功績を称えて?、「プルジェワルスキー」と言う名前になっていたとも言うことだった。
博物館の中には、ロシアから中央アジア、チベットにかけての立体地図が掛かっていて、彼が5回に亘って歩いたルートが色別に示されていた。

また、その探検の中で新しく発見した動物、植物、昆虫などの見本が展示されていた。
彼は全行程で4万kmを歩き、彼が探検した結果として中央アジアの地図が出来たと言われ、その探検の中で1,000種類の新しい生物を発見したと言う。
それくらい5回に亘ってチベットルートを探検した彼が、チュイ川の水を飲んでチフスに罹って49歳で亡くなったと言うことを聞いて、人間の弱さと言うものを改めて感じた。

そしてこの博物館は大きな公園の中に建っていて、博物館を出ると公園の敷地内にプルジェワルスキーの記念碑が建っていた。
その記念碑の上には1トンもある鷲の像があり、それを支える台には21種類の石が使われていると言う。
そして全体の重量は365トンあり、その像の正面はチベットの方を向いていて、その裏にはプルジェワルスキーが眠る墓があった。

その像の近くからは、イシク・クル湖が見えた。
カラ・コルの町からは湖は見えないので、この辺りでは絶景のポイントになっているとのことだった。
・・・
以下、続く・・・。
キルギスの2日目は、カラ・コル周辺の観光をしてから昨日通って来たチョルポン・アタの町まで戻って、イシク・クル湖のクルーズをする予定になっていた。
・・・
朝食前に町に出る
キルギスでの2日目の朝は、6時過ぎに目覚めた。
朝食は7時からで、出発は9時の予定だったので、朝食前にホテル周辺を散策することにした。
ホテルの外に出ると昨晩は暗くてよく見えなかったが、素朴な田園風景の中にカラフルなホテルの建物の色が際立って見えていた。

ホテルの前の道を少し歩いて広い道路に出ると、まだほとんど人の姿はなかった。
その真っすぐに伸びている道路の先には、天山山脈の一部なんだろうか、雪を頂いた山並みが意外に近くに見えていた。
犬の吠える声が聞こえて来た早朝で気持ちがいいので、いざ、散策に繰り出そうと思っていると、それほど遠くないところで犬が吠えている声が聞こえて来た。
それも一匹やニ匹ではなく、数匹が吠えている声だった。
よく聞いていると、その吠える声も一カ所からではなく、別の方角からも聞こえていた。
それを聞いて、ちょっと嫌な気がした。
と言うのは、私は定期的に献血をしているのだが、一般的に海外に出ると帰国後は1カ月間は献血できないが、キルギスの場合は帰国後1年間献血ができないことになっていた。
その理由は、キルギス国内でマラリヤ、ジフテリア、狂犬病などの病気に感染する可能性があると言うことだった。
同じ中央アジアの国でも、ウズベキスタンやトルクメニスタン、カザフスタン、タジキスタンは地方の町に行かない限りは原則として帰国後1カ月で献血が出来ることになっていたので、キルギスだけは特別なようだった。
それだけまだ伝染病に罹る恐れが高いと言うことなのかもしれない。
そんなことで、野良犬の遠吠えを聞いて「狂犬病」と言う言葉が頭に浮かんで来て、犬が吠えている声に嫌な気持ちがしたのだ。
それに、、、
昨年、北アフリカのチュニジアに行った時のこと、、、ホテルの周辺を一人で散策していた時に、ホテル近くの地元のベルベル人の村の傍で、野放しになっていた犬に吠えられて暫く後をつけられたことがあったのだ。
その時はたまたま通りかかった村の男性がその犬を追い払ってくれたので助かったが、かなり怖かった。(*_*)
そんなことも思い出した。
吠えまくる野良犬は怖い・・・(*_*)
しかし、それらの吠えている犬の姿は見えなかったので、取り敢えず声が聞こえている方は避けて、反対側の方を散策してみることにした。
勝利の公園広い通りに出ると、周辺には一戸建ての家や集合住宅風の建物が建っていた。
が、人気が全く感じられず、また建物自体かなり傷んでいるように見えたので、それらの建物に人が住んでいるのか空き家なのかわからなかった。
最初の大きな交差点のところに着くと、その角のところに広い公園があるようだったので、壁に沿って歩道を歩いて行くと、公園の入口に着いた。

中に入ると、正面に何かのモニュメントが建っていた。
そのモニュメントの前に建っていた像は両手で何か剣のようなものを抱え上げている格好をしていて、その上のレリーフには何か文字が書かれてあったが、残念ながら全く読めなかったので何の像なのかわからなかった。
ただ、そこには星のマークとソ連の国旗に使われていた鎌と鎚のレリーフがあるのが見えたので、ソ連時代に建てられたものではないかと言うことは想像出来た。

そして、その像を頂点として、そこから公園の入口に向かって中央の道の左右には、何体かの胸像が建っていた。
が、同じくそれらの胸像の主が誰なのかは不明だった。
後からガイドのエルメックさんに聞いたところ、その公園は「勝利の公園」と呼ばれている公園で、キルギスの著名人の像が建てられているとのことだった。
公園を出ると、さっきとは別の方角で犬が鳴いている声が聞こえていた。
一度ホテルに戻る(さて、どっちに行こうか・・・。)
取り敢えず公園の前の道に沿って歩くことにした。

広い道路の脇には、開店前と思しき何かの店が建っていた。
その店の窓を覆っている鉄の柵が何とも印象的だった。
窓を割られて盗難にあったりすることがあるんだろうか?
日本ではあまり見ない光景だが、中東や北アフリカを周った時には、どこでも見られた光景だ。

また、ガソリンスタンドも建っていたし、バスらしい乗り物が走って来たので、それなりに大きな町であることは想像出来た。
ホテルで朝食を摂るそうこうしているうちに7時半近くになっていたので、ホテルに戻ることにした。

朝食は7時からだったので、あんまりのんびりしていると食べそびれてしまうことにもなりかねない。
そう思ってホテルに戻ってそのままレストランに入ると、そこにはツアーの人は誰もいなくて、ガイドのエルメックさんと添乗員のSさんだけが食事をしていた。
と言うか、食事を摂りながら打ち合わせをしていたようだった。

それで、一人でのんびりと食事をしてから部屋に戻って、スーツケースを部屋の外に出すと、もう一度ホテル周辺の散策に出た。
出発まではまだ1時間近くあったからだ。
二回目の散策へそして、今度はホテルを出ると、ホテルの前の道を先ほどとは反対の方に行ってみることにした。
実は先ほどはホテルのスタッフがまだいなかったのでホテル周辺の地図をもらうことが出来なかったが、今度はフロントに係りの人がいたので、周辺マップをもらうことが出来たのだ。
それで、漸くホテル周辺の状況が分かって来た。^_^;

さっきとは反対の方に歩いて行くと、先ほど見つけた「勝利の公園」に続く道で、先ほどとは違う大通りに出た。
その大通りは勝利の公園から真っすぐ続いている道だった。
その道に沿って、公園とは反対の方に歩いて行くと、道路の角に「i」の文字と「山」をイラスト化したデザインが描いてある建物が建っていた。
よく見ると、「Trekking Workers' Association」と書かれていたので、山登りの情報センターのような建物かと思った。
後でガイドのエルメックさんに聞いたところ、このカラ・コルの町は、天山山脈に山登り(トレッキング)する人達のベース基地のようになっている町とのことだった。
もしかすると、ハイシーズンには多くの登山客が訪れ、この町も賑わっているのかもしれない。

もう少し先まで歩いて行くと、町の中央近く、と言った感じの場所に出た。
そこにはキルギスの国旗を掲げた建物が建っていて、その建物の中に次々と人が入っていた。
またその建物の前には、銅像が建っていたり綺麗に整備された、勝利の公園とは違った感じの広い公園があった。
そしてその辺りを散策していると、同じツアーの人達何人かと出会った。
皆さん、朝食後の散策をしていたんだろう。
「どこかいいところ、ありました?」、、、そんな会話が何度か交わされた。^_^;

出発の時間が近付いてきたのでホテルに戻ろうとして歩いていると、近くに牛を放し飼いにしている人がいた。
町中で、、、と言うか、官舎っぽい建物が建っているすぐ近くで牛?、、、一瞬驚いた。
が、それがキルギスの普通の光景だったのかもしれない。
街路樹の様子、近くに山が見える風景、広い道路なのにほとんど人の姿が見えない光景、、、そして町を歩く牛や羊。
そう言えば、昨日エルメックさんが言っていたが、そんな風景は、どこか北海道に似ている気がした。
・・・
以下、続く・・・。
昨日18日は、ボジョレー・ヌーボー解禁の日と言うことで、行きつけのカフェ「ちゃらぽこ」でワイン・パーティーがあった。
いつもは木曜日は定休日だが、臨時に夜7時からパーティーのために店を開けると言うことだったので、開店少し前に店に行った。
すると、店内では店主のパキラさんが、カウンターの中で右往左往しながら料理を作っていた。

今回の会費、と言うか費用は、最初のワイン1杯はおつまみ付きで1,000円。
その後のワインのお代りは500円と言うことで、どんなパーティーになるのかな?と思っていたが、カウンターに並び始まった料理の数々を見ていたら、こりゃ~今までの「地ビールの会」とはちょっと様子が違うぞ、、、と思った。
と言うか、この店でこれだけの料理を出してくれるなどとは思ってもみなかった。
^_^;
その後次々と店に入って来た常連さん達も異口同音のように、そこに並んでいた料理を見て驚いていた。

そして、若干一名、定刻に遅れている人の到着を待って、全員揃ってからパーティーは始まった。
店主のパキラさんを含めて7名のパーティーだったが、以前地ビールの会で一緒になった人を除いては皆初対面の人達だった。
しかし、ワイングラスを傾けながらのパーティーはいろいろと話が盛り上がって、いつしか時間が経つのも忘れてしまい、気が付けば時刻は午後11時を回っていた。
それで慌てて帰って来た訳だが、他の人達は地元の人が多かったので、あの後もアカペラの歌などでかなり盛り上がっていたんだろ~^_^;
それにしても、ワインボトルは一体何本開いたんだろう?
最後の方ではワインの在庫がなくなって、日本酒やビールが出始めて、そうなるともうワインパーティーではなくなってしまったが、、、^_^;
いやぁ~~、
それにしても、盛り上がったあぁ~~^_^;
ガルニ神殿に到着午後4時50分にゲハルト洞窟修道院を出発すると、その後15分ほどで、「ガルニ神殿」に到着した。

駐車場から歩いて入口の門を入ると、その先に小さな建物が建っているのが見えていた。
(あれが、ガルニ神殿か、、、?)
そう思いながら近づいて行くと、そこにはギリシャ風の建物が建っていた。
今までアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアと移動して来て、このような建物を見たのは初めてだった。
これまでは、ほとんどが教会建築で、それもグルジアではグルジア正教会の、アルメニアではアルメニア教会の建築様式に則った建物がほとんどだった。
そんな中で見たこのギリシャ風の建物には、ちょっと新鮮な、そして異質な印象を受けた。
その神殿は、三方を崖、一方は川に囲まれるところに建っていた。
何ともすごい場所に建っている神殿で、それは日本の戦国時代に建てられた山城によくあるタイプに似ていた。
これは神殿と言うよりも「城」ではないか?
と思っていたら、バラさんの説明の中にはなかったが、ある人の旅行記には1世紀以前はここに要塞が建っていたと書かれてあった。
しかしその後イタリア人によって攻め落とされたらしい。。。さもありなん、、、。
と言うことで、
*ガルニ神殿について、、、
◆この神殿は、眼下のアザト渓谷の玄武岩を用いて建てられた。
◆アルメニアの始祖ハイクが孫の「ガルニック」のために建てたのが名前の由来で、その後、1世紀に太陽神ミトラに捧げる神殿となった。
◆建築様式からヘレニズム文化の影響を受けているのがわかるが、周囲の24本の柱は24時間を表している。

◆6月22日(夏至)の正午に太陽の光が天井の窓から神殿内に差し込む設計になっている。
◆アルメニア王の夏の宮殿として使われた。
◆17世紀に地震で倒壊し、その後1969-1974年に再建された。
などの説明だった。
と言うことで、現在の神殿はほとんど再建されたもので、階段を上がって中に入ると、中はほとんど空洞で何があると言うものでもなかった。
ドゥドゥクを吹く男性ところで、その神殿の中にはアルメニアの民族楽器の「ドゥドゥク」と言う笛を吹いている男性がいた。
その男性は、団体がやってくる度にその笛を吹いていたが、我々が神殿の中に入った時には他の国のツアー客と思しき一団がいて、その男性が吹く笛を聞いていた。

それで我々もその笛の演奏を聞いていたが、途中でその団体の中から男性が2人がつかつか出て来て、その笛を吹く男性の両脇に立ってポーズを取り始めた。
それで彼らのツアー客の人にその様子を写真に撮ってもらっていた。
(外国の観光客はよくやるなぁ~)と思っていたら、笛の演奏が終わった後に笛の奏者にチップを渡していた。
(あ、そうかぁ、、、そう言うことね・・・)
その手際と言うか、動きが慣れたもので、チップの習慣がある国の人なんだろうと感心してしまった。
その一団が神殿を出て行くと、一時神殿内は静かになった。
そうこうしていると、今度はアジア系の団体客が神殿の中に入って来た。
最初は日本人だろうと思っていたが、近くで彼らの会話を聞いていると、明らかに日本語ではなく、東南アジア系の言葉のようだった。
そんな団体を前にして、再びあのドゥドゥクの男性が笛を吹き始めた。
すると、その東南アジア系の団体は、そこでじっとその演奏に聞き入っていた。
しかし、その演奏が終わると、彼らは何事もなかったかのようにそのまま神殿を出て行ってしまった。
(なるほどね、、、)
そう思っていると、我々のツアーの中のNKさんご夫妻の奥さんが、つかつかとその奏者の横に近づいて行って「写真、OK?」と言うジェスチャーをした。
それをこちら側からご主人が一眼レフで撮影していた。
その撮影が終わると、奥さんはそそっとその奏者の男性にチップを渡していた。
(なるほどね、、、)
さすがはNKさんご夫妻、、、かなり旅慣れている様子だった、、、^_^;
教会の跡
神殿を出ると、その右手には教会の跡が残っていた。
神殿は再建したが、教会は再建されなかったようだ。
倒壊前の石材が残っていなかったんだろうか?
または、、、
教会はアルメニア国内のあちこちにあるが、ギリシャ風神殿はここだけにしかないので、まずは神殿だけは再建して、いつかは教会も、、、と思っているうちに歳月が流れてしまった、とか、、、?
取り敢えずそこにはしっかりと、間取りを示すように正十字の形は残っていた。
ローマ式浴場の跡
神殿、教会跡と見学して、そこから少し下ったところには、3世紀の頃のローマ式浴場跡が残っていた。
現在は、それを保存するようにそれを覆う建物が建っていたので中に入ると、今まで世界各地で見て来た、あのローマ式のサウナの形式の浴場跡と、モザイクの痕跡がある床が残っていた。

そして、その床のモザイクから、ギリシャ人が造ったと考えられると言うことだった。
この浴場の水は、この下のガルニ谷を流れる川からポンプを使って水を汲み上げて使ったと言うことだった。
このガルニ神殿では見所はそれくらいで後は特になかったので、その後若干のフリータイムを取った後、バスに乗って首都エレバンに向かった。
アララット山、今一見えず
途中、条件が良ければアララット山がよく見えると言う場所を通ったので、そこで写真ストップと言うことでバスを止めてもらい写真を撮ることになった。
が、確かに山裾の部分は見えていて、そこに小アララット山と大アララット山があることはわかったが、山頂部分にはほとんど雲が掛かっていて、その全貌は見えなかった。
残念だった、、、^_^;
故障か?
バスがエレバン市内に近づいて来たところで、予定外にバスが路肩に寄って一軒の店の前で止まった。
そこで運転手のノリックさんがバスから降りて、その横にあった工場?に入って行ってその店の人と出て来ながら何か話をしていた。
その様子から、どうやら前輪近くの辺りを見ているようだった。
それで暫くあれこれやっていたが、その後ノリックさんがバスに戻ると、バスはそのまま出発した。
ばらさんがその後説明してくれたが、どうやら朝、ホテルを出た後ノラドゥズへ向かう際に通った迂回路の道路状況がかなり悪かったようで、そのためバスの車体が損傷を受けたらしいと言うことだった。
それで、修理工場で見てもらったが、そこでは修理出来ないくらいの状態のため、取り敢えず応急処置だけして再び出発した、とのことだった。
しかし、あれくらいの悪路で不具合が生じるとは、、、?
確かこのバスはベンツ社製だったのでは?
まぁ、ベンツのマークは付いていたが、ベンツの車と言ってもピンからキリまであるのかもしれないし、どれくらい使っているかとか、メンテナンスをきちんとやってるかどうかでも違うんだろう。
確かに、こうやって旅に出てると、時々乗っているバスに不具合が生じて、途中でバスを乗り換えることがある。
今年訪れたチュニジア~リビアツアーの時には、暑い中砂漠を走っていた時にエアコンが故障してかなり暑い目にあったことがあった。
まぁ、日本とは違うと言うことなんだろう。^_^;
エレバンに入った
その後、バスはエレバン市内へと入った。
車の通行量は増え、さすがに首都だ、と言う感じだった。
そして、その頃時刻は午後6時半を回っていたので、ホテルに向かわずそのまま夕食を摂るレストランへと向かった。
レストランに直行し夕食
そして、午後6時50分の頃、レストランの 「Afrikyans Inn」に到着した。
まずは、いつものように野菜を主にした前菜が出て来た。
その後は、別注文したワイン。
午後からもよくあちこちと見学して、適度に身体は疲れていた。
こう言う時のアルコールは、ぐっと身体にしみわたると言うものだ。^_^;

そして、この後に出て来たメイン料理は、ドルマと言う名物料理で、それは牛肉と米が入っているロールキャベツ風の料理だった。
今回は、ブドウの葉とキャベツの葉の2種類が出て来たが、味の方は、、、よく覚えていない、、、^_^;

また、このレストランでは、食事の間、民族音楽を演奏していた。
ここでも、ガルニ神殿で演奏されていたのと同じドゥドゥクが演奏されていた。
・・・
以下、続く・・・。
8日目のこの日は、朝食後、スターリンの出身地「ゴリ」へ向かい、まずはウプリスツィへの「穴居住居跡」を見学した後、「ゴリ」のスターリン博物館を見学した。 そして午後からは紀元前4~5世紀に栄えた「ムツヘタ」の町へ移動し、「ジュワリ教会」、「スヴェティツホヴェリ教会」を見学した。
・・・
朝食
昨日よりも30分早いホテルの出発の予定だったが、昨日はのんびりとし過ぎてホテル周辺の散策がほとんど出来なかったので、この日は朝食をサクサクと済ませることにした。
それで、7時過ぎに10階のレストランに行くと、まだ空いていて席はガラガラだったが、同じツアーのNKさんご夫妻の姿があった。
さすがは早い!
ホテル前の世界の国旗が意味するもの
ホテルの入口を出ると、ホテルの前には、いくつかの国旗があるのが見えた。
そんな中でグルジアの国旗の横にアメリカの星条旗があるのが、今のグルジアが置かれている国際関係と言うか、立ち位置を示す象徴的なことのように見えた。
また、旅行が好きで恐らくヨーロッパの中では一番旅行をすると言われるドイツの旗があるのを見ると、ここグルジアにもドイツ人はたくさん来ているんだろうと言うことが想像された。 ドイツ人は、いいお客さんなんだろう。
そう言えば、アゼルバイジャンの中で唯一遭遇した他国のツアーグループは、ドイツ人のグループだった。
しかし、星条旗がある半面、ロシアの国旗がないのは、やはり・・・、そんな感じだった。
ホテルを出て右手に向かうホテルはトビリシ市内の近くの高台に建っていた。 それでホテルを出ると目の前には道路が走っていて、その向こうにはトビリシの町が見えていた。
ホテルの周辺には特に何があると言うことではなさそうだったので、その道路に沿って、取り敢えず右手に歩いて行くことにした。

数百mほど歩くと、その先はロータリーのようになっていてそこは「AVLABALI SQUARE」」と表示されていた。
その向こうの建物には一昨日の夕方見た地下鉄の駅にあったマークと同じ「M」の表示が見えていたので、恐らくそこは地下鉄の駅だったんだろう、、、。

後で調べたら、そこは「アブラヴァリ」と言う地下鉄の駅のようだった。
そして、その辺りにはたくさんの人が集まっているのが見えた。
時間的に朝の出勤時間だったのかもしれない。 そのロータリー周辺を歩いている人は忙しそうに動いていた。
そして、そうした人達を見ていたら、ふと、あることを思ってしまった。
それは前々から何となく気が付いていたのかもしれないが、「グルジアの女性は、黒い服を着ている人が多いなぁ~」と言うことだった。
自分が見た感じでは、2~3割くらいの人は、黒い服を着ていたように思えた。
グルジアの女性は黒い服をよく着る?
アゼルバイジャンからグルジアに入った日に宿泊した民宿の女性が、上下黒い服を着ていた。
まぁ、その時は特に何とも思わなかったが、夕方散策しに出かけた時に町で見かけた女性の何人かが黒い服を着ていたので、(あれ?)と思った。

そして翌日、、、
バスが民宿を出発して、テラヴィの町を通り過ぎて行く時に町を歩く人を眺めていたら、またまた黒い服を着ている女性を何人か見かけた。
それでそのことが気になってしまって、ガイドのケティさんに「グルジアの女性は黒い服を着ている人が多いように思うんですが、何か理由でもあるんですか?」と聞いてみた。

すると、少し考えてから返って来たケティさんの返事は、「特に理由はないです、、、多分、若く見えるからじゃないですか?」と言うことだった。
(へぇ~~、そう言うものなんだ・・・)と、その答えがちょっと意外だった。
その時着ていたケティさんの服が黒だったが、本人はあまり意識はして着ていないと言うことなんだろう。

黒い服を着ている人が多いのは、「流行」とか「昔からの伝統」とか、「宗教上のこと」などの理由などではないかと思っていたが、どうもそう言うことではないらしい。
とは言っても、アナヌリ教会の聖母マリア教会で我々の写真撮影を厳しく制止していたあの年配の女性も上下黒い服を着ていた。
もしかすると、本人達にとっては日常的なことなので、それを敢えて「理由は?」と聞かれても、咄嗟に答えがみつからなかったのかもしれない。
ま、そんなことを思いながらホテルまで戻った。
ゴリに向けて出発皆さんが集合すると、バスは8時半にホテルを出発した。
バスは途中まで昨日と同じルートを走り、軍用道路へと分かれたところをこの日は西へ進むことになっていた。

バスが出発してから15分ほど走ると、昨日は往きはあっという間に通り過ぎ、帰りは雨で写真に撮れなかった大きな像が前方に見えて来た。
それで、(今日は写すぞ!)と万全の体勢で臨んでバスの中から写真に撮ったら、一応それなりには撮れていたが、何と、その像は後ろ向きだった・・・。^_^;
なので、正面からはどんな様子なのかはわからなかったが、後ろから見た感じでは、一昨日見学した「メテヒ教会」に建っていた「ゴルガザリ王」の像なのではないかと思った。
トビリシと言う町の建設に関わった王だし、町の入口に建っている像と言うことからも、多分そうなのではないかと思ったが、確信はなかった。^_^;

ところで、バスが走っていた道路は2013年までは料金が無料(その後は有料になる)の高速道路だと言うことだった。
現在は、ワールドバンクが資金を援助して造っていて、ゴリまで伸びる予定だと言うことだ。
避難民の住宅その先で、昨日と同じく左手にムツヘタの町が見えて来た先で、右手に赤い屋根の集合住宅がたくさん並んでいるのが見えて来た。

それは、自称:南オセチア自治州(または共和国)がグルジアから独立するために紛争になった際に、南グルジアから逃れて来た難民が8万人もいて、そう言った人達が住んでいる住宅だった。
その避難民のための住宅を建設するに当たっては、アメリカから100万ドルが提供されたと言う。
ロシアは南オセチア自治州に兵器を提供し更にはロシア軍を駐屯させる一方、アメリカはその紛争で生まれた避難民の住宅建設の資金提供をしていると言う・・・。
これでは、グルジアとロシアの関係はよくなるはずはなさそうだ。

ムツヘタで軍用道路と分かれてからゴリへと向かう道は、その南オセチア自治州との「国境」のすぐ南側に沿って走っていた。
それは国境からはほんの数kmくらいのところもあったようだった。
羊が放牧され、遠くにはコーカサスの山々が見えるこのような地域で、そんな紛争が起こっているなんて、、、
今回のツアーに出るまでは、全く考えもしなかった。
・・・
以下、続く・・・。
ワイン工場へ
午後2時過ぎにアフトさんの家を出発すると、約20分ほど移動したところで「キンズ・マラオリ」と言うワイン工場に到着した。
グルジアと言えばやはり「ワイン」と言われている。
それは、グルジアワインは約8,000年の歴史があると言われていて、グルジアは、あの「大洪水」の後、箱船に乗ったノアが、アララット山(トルコとアルメニアの国境近く、現在はトルコ領だが、アルメニアの故郷と言われている山)に漂着した後、世界で最初にワインを造った地と言われている。
それほど、グルジアワインは歴史がある、と言うことで、ワイン工場の見学が予定に入っていた。
工場見学
このワイン工場は16世紀に小さなワイナリーとして始まったと言う。
その後1801年に東グルジアがロシア帝国に支配されると、このワイン工場もロシア帝国のものとなり、その後変遷を経て現在は個人ではなくワインコミュニティーが所有する形をとっていると言うことだった。

そして、このキンズマラオリと言うワイナリーは400haの土地を所有し、40種類のワインの他ウォッカやコニャックなどのその他の酒類も造っていて、年間1,000,000本のワインを生産していると言うことだった。
そして、ソ連時代はソ連国内でそのかなりのものが消費されたが、ソ連解体後はロシアが輸入しなくなり、その結果グルジアは輸出先がなくなり困ってしまい、現在はロシア以外に輸出先を開拓していると言うことだった。
担当の係りの人は、グルジアは現在親米路線をとっているために、ロシアはグルジアを何とか自分のところに繋ぎ止めようとして、いろいろと嫌がらせをしていると言っていた。

そんな説明を聞きながら、工場敷地に設置されている貯蔵タンクを見学したり、ブドウを潰してワインにする圧搾機を見学したりして、その後は、出来上がったワインを瓶に充填する場所を見学した。
手作業の充填、ラベル貼り
そこでは実際に男性作業員がボトルに充填作業をしているところだったが、それが何と、手作業だった。
これくらいの規模の工場になれば、日本では作業効率とか生産コストを考えて機械化されているところがほとんどだと思うが、半・手作業と言うか、完全な機械化された工程ではなかった。
その後ちょっと薄暗い部屋に案内されると、そこでは何人かの女性達が机の回りに集まって何やら作業をしていた。

それは、ボトルにラベルを手で貼っていたのだ。
何と!、、、ここでも、手作業だった。
む~~、、、
こんなことをしていたら、いくら人件費が安いとは言っても、製造コストは割高になるんじゃないかな?
と考えるのは、日本人だからなんだろうか?(*_*)
如何に安く造って高く売るか!、、、と言うことを考えないと、利益は生まれにくいだろう。
製造コストが高くつく?、、、生産効率が良くない作業状況、、、と考えると、これももしかしたら、まだソ連時代の名残なのかもしれない、、、。
しかし、年間1,000,000本の生産をしていると聞いていたので、これを計算してみると、1か月25日稼働だとすると、1日当たり約3,400本の生産量となる。
これを1日8時間稼働として計算すると、1時間に425本、1分当たり約7本の生産量と言うことになる。
7人でラベルを貼る作業をすると仮定すると、1人当たり1分で1本にラベルを貼ると言う計算になる。
一種類のワインを生産すると仮定してこれなのだから、1,000,000本が40種類の合計数だとすると、更に生産効率は落ちると言うことになるんだろう。
む~~、、、
工場での作業の様子を見ていると、そんなところなのかなぁ~、、、と思ってしまった。(*_*)
逆に考えるなら、製造コストを下げるために機械化するには、年間1,000,000本何て数字ではだめで、恐らくその10倍、またはそれ以上の製造をしないと採算が合わないのかもしれない。
しかし、それだけのワインを買ってくれる国がない、、、と言うことになれば、現状での製造形態を取らざるを得ない、と言うことなんだろうか、、、。
グルジアではワインの生産が大きな産業かもしれないが、ワインを生産し輸出している国は、ヨーロッパではフランス、イタリア、スペイン、ドイツ、、、南米ではチリが有名だし、アメリカのカリフォルニアワインも最近ではよく名前を聞く。
そう言うことを考えると、グルジアの置かれている状況はかなり厳しいと言わざるを得ないのかもしれない。

その後最後の工程としては、出来上がったワインを樽に入れて保存する倉庫を見学した。
通常は6~18か月保存すると言うことで、そこには「サペラヴィ」と言う赤ワインが樽に入っていた。
場所を改めて「試飲」さて、約30分ほどの工場見学を終えると、別棟に案内され、そこで一室に通された。

そこにはテーブルが並んでいて、その上には空のグラスがいくつも並んでいた。
そこで、この工場で造っているワインを実際に試飲して、希望があれば購入することが出来る、、、と言う、日本でもお馴染みの、ワイナリーでの工場見学後の試飲会となっていた。
そして、そこでは新しいボトルが持って来られてキャップを開封すると、3種類の白ワインと2種類の赤ワインを次々にグラスに注いでくれて味見をすることになった。
その5種類は、
①
白 「カツィテリ」 アルコール度数は11.5% 7ラリ(約370円)、、、一番広まっているワインで2年物。
②
白 「ツィナンダリ」 12% 7.8ラリ(約410円)、、、二種類のワインをブレンドしている。
③
白 「キシー」 11.5% 9.8ラリ(約520円)、、、これは一番古いタイプのワイン。
④
赤甘口 「キンズ・マラオリ」 セミスウィート 9.85ラリ(約525円)
⑤
赤辛口 「サペラヴィ」 10.89ラリ(約580円)、、、これは18か月保存して造るグルジアでは一番有名なワインでだと言う、、、
となっていた。
意外、、、とは言っては何だが、結構安いように感じた。
それで、あれこれと念には念を入れて???、、、試飲をした結果。
とは言っても、普段からワインは飲み慣れていない上に、自分の舌がそんなに肥えているとも思っていないので、味には自信がなかったが、一番自分の口にあっている、と言うか飲みやすいと思った、赤の甘口の 「キンズ・マラオリ」を買うことにした。
実は、翌日はブドウ農家に寄って、そこでも自家製のワインを買うことが出来ると言う予定になっていたので、そこで試飲するワインが美味しくて安かったらどうしよう、、、と迷ってしまい、あれこれ考えた結果、明日のブドウ農家のワインが安くて美味しかったら、どっちかのワインを旅の間に飲んでしまえばいい!、と考えて、ここでは2本、買って行くことにした。
他の皆さんはと言うと、試飲中、係りの人が1本1本特徴やら値段やらを説明していたのをあまりよく聞いていなかったらしく、いざ買う段になると、「これ、いくら?」とか「赤のこれは値段いくらって言った?」とか、回りにいる人やガイドさんに聞きまくっていた。
それと、一応はスーツケースに入れて関税が掛からない範囲で持ち帰ることが出来るのは確か3本までだったはず、、、と言うことで?

皆さん、ほとんどの人が3本ずつ腕に抱えてレジに群がっていた。
それに対してレジの係りの人は、きっちりと!、、、小数点以下2位までの細かい単位の値段まで計算してレシートを発行して渡してくれていた。
アラブ世界では、これほど細かくはないだろうなぁ~~などと、妙なところで関心してしまった、、、^_^;
・・・
以下、続く・・・。
*フエ:ベトナム最後の王朝、阮(グエン)朝(1802~1945年)の都が置かれたフエ。 かつてユネスコの事務局長だったアマドゥ・マハタール・ムボウ氏はフエを「賞賛すべき建築上のポエムである」と語ったが、その言葉はズバリとこの町を言い表している。 ゆったりと流れるフォーン川のほとりに、王宮、寺院、皇帝廟などの風格のある建築物が点在する、落ち着いたたたずまいの町だ。 これらの古の建造物群は、1993年にベトナム初の世界遺産に登録された。(「地球の歩き方」より)食事を終えると、再びバスに乗って、フエの観光地としては有名な「トゥドゥック帝廟」へと向かった。
フエの中心地近くにあったレストランの「パラダイスガーデン」からは南西方向に約6kmほど離れていた「トゥドゥック帝廟」には、午後2時10分の頃に到着した。
*トゥドゥック帝廟:1864年2月から1867年3月までの約3年間を費やして造られた帝廟で、広々とした別荘風の
落ち着いた造りが絵画的な美しさを生み出している。
門を入ってすぐ右側に大きなハス池があり、池岸には釣殿と涼しさを味わうための木造の建物がある。
池の正面の階段を登ると、皇帝を祀った寺があるが、ここは皇帝が長期滞在用に使用した宮殿と言われている。
階段を戻り、池を右に見ながら200mほど歩いた左側にある階段を登ると、皇帝の功績を称える石碑がある。
その奥にはまたハス池があり、さらに奥に石壁に囲まれた皇帝の墓がある。(「地球の歩き方」より)約1時間、トゥドゥック帝廟を見学すると、この日はもう一か所「ティエンムー寺」の見学をする予定だったが、それは翌日に変更と言うことで、そのためにその後は少々早かったがホテルへチェックインをすることになった。

ホテルに入る前にバスの車内でホテルの地下にスーパーストアがあると言う話を聞いていたので、チェックインをした後にそのスーパーで買い物をしようと思って、チェックインの際にフロントで両替をした。
昨日、中央郵便局で切手を買った残りの現地通貨だけではあまりにも足りないと思ったからだ。
それで、取り敢えず1,000円分を両替したが、現地の通貨で「190,000ドン」に両替されて帰って来た。
一緒に両替をした人は10ドル札を出してその分を替えたが、10ドルは「180,000ドン」に両替された。
1000円が190,000ドン?
こんなに大きな単位のお金を手にしたのは、デノミ前に訪れたトルコ以来のことだった、、、^_^;
しかし、あのトルコに行った時は、億単位のトルコリラだったが、、、。
・・・

この日のホテルは、新市街からは少し離れていたが、昼食を摂ったレストランの傍を流れていた「フォーン川」沿いを走るレロイ通りに面して建っている「グリーンホテル」だった。
部屋に入るとまだ午後3時半を回った頃だった。
夕食はホテルのレストランで摂ると言うことで午後6時にロビーで集合することになっていたので、それまでまだ2時間半はあった。 それで、この間の時間にフエの町の散策に出ることにした。
ホテルを出て左手に300mほど行けば「フエ駅」があるようだったが、ホテルの前の「フォーン川」の向こうに、大きなベトナム国旗が翻っているのが見えたので、そこに行ってみることにした。
そこは、翌日見学する「阮朝王宮」が建っている辺りだった。
ホテルの前のレロイ通りはその辺りだけ交通量がそれほど激しくなかったので、何とか自力で渡ることが出来た。

そしてまずはホテルの正面の先、フォーン川の畔に出てみた。
すると、そこには何艘もの遊覧船と言うか観光船?のような龍の首が船首につけられていた船が浜辺の上がって並んでいた。
その様子からそこは遊覧船の乗り場のように思えたが、客の姿は全くなかった。
その先、川の畔には歩道がなかったので、レロイ通りに戻って歩くことにした。

レロイ通りに出ると歩道を歩いている人はほとんどいなかった。
そのまま少し歩いていると、後ろから走って来たバイクが横に停まって運転手がこちらに向かって何か喋っていた。
ベトナム語は全くわからない、、、が、雰囲気とジェスチャーから、「後ろに乗らないか?」と言っていたようだった。 それで断って歩き始めると、また同じようにバイクが近付いて来て声を掛けて来た。
どうやらこれは、後ろに客を乗せると言う商売をしているように思えた。

通りの反対側には赤いレンガ風の建物が建っていた。
それは「クオック・ホック」で、ホーチンミンを始め近代ベトナム史に名を残す要人達が学んだ学校と言うことだ。
通りのこちら側にも広場のところに古い遺跡のような建物が建っていたが、その前では地元の高校生なんだろうか、10数人がその広場でサッカーをやっていた。
まるで遺跡の存在が日常的な当たり前の存在のように感じた。

ホテルを出て15分ほど歩くとフースアン橋のところに出た。
ここでは車道を横断することなく、そのまま道なりに左折するようにして橋を渡り始めたが、向こうからはバイクや自転車の群れが走って来た。 こりゃすごい! 圧倒されるようだった。
と同時に、橋の脇にある歩道を歩いている人の姿がないことに気が付いた。
先ほどのレロイ通りで歩く人の姿をほとんど見なかったが、ベトナムでは「歩く」と言うことはしないんだろうか?、、、と思った。
その後橋を渡り終えると、グリーンホテルの対岸辺りを目指して歩いて行った。
相変わらず、時々バイクが近付いて来て「乗らないか?」と声を掛けて来た。
これだけ歩いていて声を掛けられると言うことは、ベトナムでは「歩く」と言うことはほとんどしないのかもしれない・・・。 そう思った。

その後少し歩いて行くと、道路の反対側に古そうな門とその後ろにベトナム国旗が見えて来た。
その奥に見えるのは「フラッグタワー」と言われる大きな台なんだろう。 そこにたなびくベトナム国旗は、ホテルから川越しに見えていた旗だ。
近くまで来て見ると、さすがにでかかった。
そのでかいベトナム国旗を見て、ヨルダンのアンマン市内に掲揚されていた巨大な国旗を思い出した。
日本では、あまり日の丸が掲揚されているのを見たことがないが、観光地や国の重要な施設に日常的にこうやって国旗を掲げていると言うことは、国家と国民との関係や国家に対する国民の意識と言うか、そんなものが窺えるような気がした。
それにしても、いいか悪いかは別にして、日本では日の丸に対して意識がなさ過ぎるように感じた。
(これはもしかして、義務教育の中で日の丸掲揚がいろいろと問題視されていることと関係があるんだろうとは思うが・・・)
そして、その辺りまで行ってそこからホテルに引き返すことにした。
フースアン橋からは北側にチャンティエン橋が見えていた。
その位置関係から、昼食を摂ったレストランの「パラダイスガーデン」はあの辺りだろうと察しられた。
バスで移動しているとバスに乗って数十分移動してまた戻って来て、とかして、その位置関係がわからなくなりがちだが、こうやって歩いていると意外な位置関係がわかって来て面白いものだ。(^.^)

日暮れ近くのその時間、橋を渡っているとフォーン川には、先ほど見かけた遊覧船が流れに合わせるようにして向こうからこちらに向かって進んで来た。
見るとそこそこ客が乗っていた。 その様子を見て、橋の上から思わず手を振りたくなってしまった、、、^_^;
・・・
以下、続く・・・。
片山神社の鳥居のところには「立入禁止」の札が掛かっていて旧東海道はその鳥居の前を右手に登って行くようになっていた。
そこから登り始めると、それほど急ではない坂道が九十九折りになって続いていた。
ゆっくりゆっくりと登って行くと、所々にその道が東海道であることを示す案内板が立っていたので、道に迷うと言う心配はなさそうだった。
実は、、、2001年にこの鈴鹿峠を越えた時は、片山神社から先の道で迷ってしまった。
と言うか、片山神社の鳥居を見た記憶がなかった。
鳥居のずっと手前に立っていた「片山神社」と書かれた杭?は見ていたので、そこから先のどこかで違う道に迷い込んでしまったのかもしれない。
とにかく、登っているうちに「道」がなくなってしまい、山肌に生えている木につかまるようにして登って行くと、気が付くと、「運良く」鏡岩のところに出ることが出来ていた。 その時は、正に奇跡だと思ったものだ。
そんなことがあったので、案内板の表示にはほっとした。^_^;

片山神社の鳥居前から数分ほど登ったところで、目の前に巨大な高架橋が現れた。
それは、国道1号線だったが、その高架橋も見た記憶がなかった。 それで、2001年の時には一体どの道を登って峠まで至ったのか、我ながら恐ろしくなった・・・(*_*)
その橋の下を潜って更に登ると、その先で少し広い場所に出た。
そこには「鈴鹿峠」と書かれた説明板が立っていた。
それには、
「鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は『阿須波(あすは)道』と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。 八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を退治したという話や、坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捕えたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。(以下略):環境省 三重県」と書かれていた。
どうやら、難所と言われた由縁は道の険しさよりも「山賊」の存在のようだ。
朝、オークワ流通センター前を出発した時には国道沿いの温度表示が「5℃」となっていたくらい寒さが厳しかったが、ここまで登ってくるとさすがにメンバーの皆さんはひと汗かいたようで、そこでジャケットの下に来ていたシャツなどを脱いだ。
そして、「あと一息」と言うことで2~3分ほど登ると、見晴らしのいい場所に着いた。
どうやらその辺りまでが登りの道のようだった。
何だか、あっと言う間に登って来たと言う印象だった。
その先、平坦な道を歩いて行くと、左手方向に「鏡岩」があることを示す案内板が立っていた。
鈴鹿峠を越えるには、この鏡岩を見逃す訳にはいかない、、、と言うことで、300mほどではあったが、寄り道をすることにした。

「鏡岩」については
「鈴鹿峠頂上にある巨岩で、岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。 これは鏡肌(スリッケンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。
東海道において、鈴鹿峠は『東の箱根峠、西の鈴鹿峠』といわれるほどの難所で、山賊がこの岩を磨きそこに映った旅人を襲ったという伝説から、『鬼の姿見』とも言われている。:亀山市教育委員会」と書かれていた。

せっかくなので、この鏡岩の上に登ると、そこからは、遥か下の方に国道1号線が走っているのが見えた。
そんな眼下の景色を見ていたら、そんなに高いところに登って来た印象はなかったが、確かに峠越えをしてるんだなぁ~、と言う気持ちになった。(^.^)

再び旧東海道に戻ると、そこからすぐ先が三重県と滋賀県の県境になっていた。
その辺りかどうか、江戸時代、峠には立場茶屋があって、旅人はそこでひと休み出来たようだが、現在はそんなものはありゃしない・・・。

周辺の景色と言えば、山側には綺麗に手入れされた茶畑が広がり、その向かいには「万人講常夜灯」と言う巨大な石灯籠が立っていた。
そして、その前には公衆トイレと座って休める椅子が設置されていた。
時刻は午前11時20分頃になっていた。
亀山のホテルで朝食を摂ったのが6時半だったので、ぼちぼち腹が減りつつあった。
そこで、手持ちの携帯食を摂りながらひと休みした。
この鈴鹿峠を越えれば、あとは京都まではほとんど厳しい道はない。
と言うことで、ほっとしながらの休憩だった、、、^_^;
・・・
以下、続く・・・。