今日は12月14日。
そうだ、今日は赤穂浪士が吉良邸に打ち入った日だ。
恐らく、今日の泉岳寺には、相当な人が出ていただろう・・・。
そんなことを思いつつ、OB会の皆さんと歩いた赤穂浪士の歩いた道を歩く、、、の続き。
・・・
「切腹最中」の「新正堂」を出た後は、再び旧東海道に戻って泉岳寺を目指した。
新橋5丁目から約2.2km歩くと、JR京浜東北線の田町駅近くまでやって来た。
その頃、時刻は午前11時半を回っていた。
メンバーの一人が、「腹が減って来たけど、今日の昼食はどこで摂るの?」と聞いて来た。
「決めてませんけど、お腹空きました?」と答えると、
「朝が早かったんで、腹減って来たんだよなぁ~」と言った。
するともう一人の人が、
「私はいつも12時には食事が終わってるんだ」と言った。
それならば、と言うことで、食事を摂れそうな店を探すことにした。
その場所の近くには「慶応大学」や大手企業の本社が建っていて、いわゆるビジネス街風のところだったので、食事が摂れる店はたくさん並んでいた。
そんな中から一軒の店で昼食を摂ることにした。
その店があった辺りは、吉良邸に討ち入った赤穂浪士9名が幕府の沙汰を待つためにお預けになった後、元禄16年2月4日(1703年3月20日)切腹したと言う三河国岡崎藩主の水野監物邸が建っていたところだった。
現在はJR田町駅前のビル街になっていて、その場所を特定することは出来なかったが・・・。
食事を終えた後は、少し寄り道をして、慶応大学の前から裏に回って、イタリア大使館の周って来た。
イタリア大使館は、大石主税良金ら10名が切腹をしたところで、伊予松山城主の松平久松隠岐守定直の三田中屋敷だったところ言うことだ。
再び旧東海道に戻り、「札の辻」から700mほど歩くと高輪大木戸跡のところに着いた。
もう、泉岳寺は目の前だった。
しかし、そこから直接泉岳寺には向かわずに、ちょっと寄り道をして「伊皿子坂」を上がってスリランカ大使館の近くの都営アパートのところへと向かった。
そこの近くに「大石良雄外16名忠烈の跡」があったからだ。
そこは、肥後熊本藩江戸下屋敷のあった場所で、現在は門が閉ざされていてその奥はかなり荒れた土地と言う感じに見えた。
そして、そこからは保安寺と正源寺の間を通って泉岳寺の山門の脇に出た。
いよいよの泉岳寺だ。
まぁ、訪れたのが12月10日だったので、それほど人の姿はなかったが、47士の墓がある墓地には線香の煙があちこちに立ち上っていた。
合掌・・・。