「カルタゴ」は古代地中海で活躍した海洋民族国家で、ローマが台頭して来るとそのローマと地中海の覇権を争って3回にわたるポエニ戦争を行い、ローマに敗れて滅んだ国だ。
その2回目の戦いでは、名将ハンニバルが象を従えてアルプスを越えて、ローマを背後から攻めたことは有名だ。
世界史の授業でこれくらいのことは習って知っていたが、逆に言えばそれくらいのことしか知らなかった。
それにしても滅亡してしまったカルタゴ、そしてそのカルタゴを造ったフェニキア人はその後どうなってしまったんだろう。
同じく国を失ったユダヤ人は、その後世界中に散らばって何世紀にもわたって生き続け、20世紀になってイスラエルと言う国家を取り戻したが、フェニキア人はどうなったんだろう、、、そんなことが気になった。
そのカルタゴは「第3次ポエニ戦争(前149~前146年)では3年間の籠城戦の後、ついにカルタゴは陥落した。 その時のローマ軍による町の破壊ぶりは徹底したもので、廃墟に塩をまいて人も住めず作物もできないようにしたほどだった。(「地球の歩き方」より)」と言うことで、現在のカルタゴには古代のカルタゴ当時の遺跡はほとんど残っていなくて、ローマ時代の遺跡が残っていると言うことだ。
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*ガイドのアーレムさんのこと。
チュニジア滞在中は、通しで「アーレムさん」と言う現地のガイドが付いてくれた。
このアーレムさんは、基本的には英語でガイドをしてくれそれを添乗員のYさんが訳して説明してくれた。
が、所々で日本語の単語を交えてくれたので、20~30%くらいは彼女の言っていることが理解出来た。
そのため、ローテーションでバスの座席が「前」になった時で、最前列に座っているアーレムさんの後ろの席に座れた時は、移動中のバスの中であれこれとアーレムさんに質問をしてしまった。(^.^)
まぁ、質問する内容はたわいもない内容だったが、そんな質問にもまじめに答えてくれてありがたかった。
*カメラチップのこと。
チュニジア滞在中に訪れた遺跡や博物館では、そこでカメラ撮影をする場合、一人1ディナールの「カメラチップ」が必要だった。
これは入場料とは別のもので、チップとは言えちゃんと領収のチケットも発行してくれた。
(入場料、入館料は旅行代金に含まれていた。)
今まで訪れた国で、このような形でほとんどの遺跡で「撮影料」を支払ったのは、初めてのことだった。
そして、このカメラチップは少額だったが、ちょこちょことかかった。
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バスがホテルの建っている丘を下って行くと、遠く海の方角に二こぶラクダの瘤の格好をした山がちょこんと見えていた。
その山は標高576mの「ブーカルニ山」で、チュニスに滞在中はあちこちからその山を見ることが出来た。
そして、バスはホテルを出発して約30分、チュニスの北西部約12kmのところで地中海に面している「カルタゴ」の町の北西に広がる「ビュルサの丘」に到着した。
入口で「カメラチップ」の1ディナールを支払って中に入ると、ピュルサの丘には地中海の方に向かってローマ時代の遺跡が残っていた。
そのローマ時代の遺跡の中には、ポエニ人(=フェニキア人)の住居跡が残っていた。
また、その近くには大きな石の玉がいくつか無造作に?置かれていた。
それは、第三次ポエニ戦争の時に使われた大砲の玉だと言うことだった。 この玉が包囲していたローマ軍によって撃ち込まれたものか、カルタゴ軍のものかは聞きそびれたが、いずれにしてもすごいものだ。
その後は、丘の上に建っている「カルタゴ博物館」に入って見学をした。
ここには、この周辺から出土されたローマ時代のモザイク画や神々の像、またカルタゴ時代に地中海で行われ交易の品々などが展示されていた。
館内に入ってすぐのところには、生贄に使われた祭壇のレプリカが置かれていたが、この博物館の中にはいくつかのレプリカが展示されていた。
本物はと言うと、チュニス市内にある「バルドー博物館」に展示されていると言うことだった。
(このバルドー博物館には2日後の19日に訪れた。)
約30分博物館の見学をするとその後若干のフリータイムがあり、次はバスに乗ってビュルサの丘を下って行った。
そして、海のすく近くまで来たところのサランボ地区でバスを降りて見学したのは「トフェ」と言う遺跡だった。
トフェは「タニト神の聖域」と言われるところで、カルタゴ時代は墓場と火の神と言われているバール・ハモン神と天と豊穣の女神と言われているタニト神の二つの最高神が祀られた神殿が建っていたところだと言う。
そして、ここからは2万以上の骨壷が発見されたと言うことだ。
その骨壷の中からは炭化した幼児の骨が発見されていることから、カルタゴ時代は生贄のために幼児を殺して神に捧げると言う風習があったと言われている。
が、この生贄の話はギリシャ人の歴史家であるディオドロスの書の中に書かれていて、その後のローマ人もディオドロス話からカルタゴの人々が野蛮な習慣を行っていると批難したと言うので、最近は生贄のための幼児の骨だったのかどうか、疑問視もされていると言う。
当時疫病が流行った時に、それが蔓延しないように幼児の遺体を焼いたのではないかと言うことも考えられると言うことだ。
現在は、狭い場所にそれほど多くない石碑が集められていたが、この遺跡はローマに占領される以前のカルタゴの姿を残す数少ない遺跡だと言うことだ。
その石碑の中には、横棒の上に棒に接して○、その横棒の下に棒に接して△、の「タニトの印」と言われる形が彫られているものがあった。
トフェを後にすると、そのすぐ近くにあるカルタゴ時代の「軍港と商港の跡」に立ち寄った。
古代カルタゴは地中海での海上貿易を行うために、多数の軍船と商船とそれらが停泊するための港を持っていた。
そのそれぞれの港跡が完全な形ではないにしても、その当時の姿を想像させる「港」があった。
当時の軍港は円形の220艘が係留できるドックのような施設があったと言う。
そしてその横には軍港と繋がる形で「商港」があったと言うことだ。 商港のあったところは現在は埋め立てられていて、建物が建っていた。
「軍港と商港の跡」から海岸線に沿って約1.5kmほど北東に移動したところには「アントニヌスの共同浴場」があった。
アントニヌスの共同浴場は、「海を背景に建てられた広大な共同浴場で、2世紀にローマの五賢帝のひとり、アントニヌス・ピウス(在位138~161年)によって建設された(「地球の歩き方」より)遺跡で、保存状態はなかなかよかった。
ところで、この遺跡を見学している時にパラパラっと雨が降って来た。
朝の空の様子からは想像も出来なかった。 が、そんな朝の空だったので、傘は持って来てなかった。
用意がいい人もいて、携帯傘をさっと差した人が何人かいたが、まさか雨が降って来るとは!?と同じように思っていた人もいたようで、ホテルを出る時に傘は持って出たがバスの中に置いて来たと言う人もいたようだった。
それくらい、朝の空に騙されたような雨だった。
そんなことで遺跡ではざっとアーレムさんの説明があった後若干のフリータイムがあったが、雨が気になってなかなか自由に動けなかったのが残念だった。
アントニヌスの共同浴場の遺跡の見学を終えた後はバスで移動して、昼食を摂るレストランへと向かった。
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以下、続く・・・。