午前11時50分にブラ・レジアを出発すると、次の目的地であるドゥッガに向かった。
ドゥッガはブラ・レジアから南東方向に30kmくらい行ったところにある町で、移動中道路の左右にはユーカリの並木が続いていた。
ユーカリと言えばコアラの食糧と言うことでオーストラリア?と言うイメージがあるが、ここのユーカリの木は19世紀のフランス統治時代にオーストラリアから輸入したものだと言うことだった。
ブラ・レジアを出発して50分ほど過ぎると徐々に標高が上がって来て、道もくねくねとして来た。
目の前にこんもりとした森が見えて来た時、アーレムさんからその森ではイノシシが獲れると言う説明があった。
そしてそのイノシシは食用にされると言うので、(イスラムの人がイノシシを食べるのか?)と思っていると、外国人の旅行者が食べると言うことだった。
(なんだ、そ~言うことか・・・^_^; )
その先でツーボルソックと言う町に入って、「HOTEL THUGGA」のレストランに入って昼食を摂った。
このTHUGGA(トゥッガ)はDOUGGA(ドゥッガ)のローマ時代の読み方らしい言うことが後でわかった。
レストランに入ると、先客で日本人の団体が食事をしていた。
結構大勢だったのでどこのツアーの人達だろうと思って見ると、「旅物語」のバッチがちらりと見えた。
(お~!、、、あの「恐るべし、旅物語」のツアーか、、、)
「旅物語」には一度、オーストリア一周のツアーで参加していたが、安いが忙しい盛り沢山のツアーだった。
→
オーストリア紀行
席に着くと、このレストランではチュニジア産の「セルティアビール」があると言うので、まずはその「セルティアビール」ビールを注文した。
このビールはあっさりとした感じの飲みやすいビールで、1本3.5ディナールと、昨日の昼に飲んだビールに比べると安かった。
料理は小麦のスープが出て来た後に、メインディッシュのイノシシの肉料理が出て来た。
これが、移動中にアーレムさんが説明していた「外国人の旅行者が食べる」と言うイノシシだったのか・・・!^_^;
ところでチュニジアツアーの記録をインターネット上に公開している人のレポートを見ると、ドゥッガで昼食を摂っている人は、まず、このイノシシの肉の料理を食べたようだった。 やはり、名物料理と言うことなんだろう、、、
^_^;
そして、食後にはデザートしてオレンジが出て来た。 ひとり1個あったが、ブラ・レジアの駐車場のところで生オレンジジュースを飲んでいたKDさんは、「もうお腹いっぱい、私はオレンジはいいわ」と言っていた。 そう言えば、あの生オレンジジュースには、1杯に4個分のオレンジを使っていたっけ、、、それじゃあ、結構お腹に貯まっていただろう、、、^_^;
その後レストランを出発すると、ドゥッガまではもうすぐだった。
*ドゥッガ:この古代都市遺跡ドゥッガはチュニスから106km南西、標高600mの丘の上にある。
紀元前2000年には、ヌミディア人がここに住み始め、カルタゴからフェニキア人がやって来る紀元前4世紀、ヌミディア王国の重要な都市「トゥッガTHUGGA」として栄えたといわれている。 紀元前3世紀にはカルタゴの支配下におかれたが、第2次ポエニ戦争の終わりの紀元前202年に再びヌミディア国王マシニッサの領土になった。 カルタゴの滅亡後紀元46年ヌミディア王国がローマに敗れた後、この土地もローマ帝国の領土となる。
ドゥッガは紀元2~4世紀に繁栄を極め、当時市内には少なくとも1万人もの人々が住んでいたと言う。 しかし、その後ヴァンダル人の支配下でゆっくりと町は衰退に向かい、ビザンチン帝国時代には要塞化された。
19世紀に考古学者が発掘を始めた頃、この廃墟にはアラブの村人たちが細々と暮らしていただけだったと言う。 1997年に、アフリカを代表するローマ・ビザンティン複合遺跡として世界遺産に指定された。(「地球の歩き方」より)
駐車場でバスを降りると、入口を入ったすぐ先に「円形劇場」があった。
地中海沿岸諸国のあちこちに残るローマ時代の遺跡でこのような劇場は何度か見て来たが、それでもその造りには圧倒されてしまった。
半円形になっている座席部分は全部で19段あるが、下が一等席で上に行くに従って身分が低い人達の席になっていると言う。
その座席に対するように建っている柱の部分は現在は1階部分しか残っていないが、建設当初は2階建てだった。
また、現在でも夏にはここでコンサートが行われていると言うことだった。
円形劇場を出て100数十mほど遺跡の中心部へ歩いて行くと、そこには「ビジネス広場」または「風の広場」と呼ばれる一角があった。
そこは市民が議論を行った場所だったが、路面上に大きな円を描く格好で12の風の名前が刻まれていた。
その風の名前が刻まれている場所は、風が吹いて来る方向を示していて、そのために風の広場とも呼ばれると言うことだった。
風の広場に接するように北側には「マーキュリー神殿」があった。
しかし、イスラム勢力が攻めて来ると言うことでビザンチン帝国がそのマーキュリー神殿を壊して、その石材で城塞を造ったために現在はほとんど構築物は残っていなかった。
風の広場の西側には、この遺跡の中心部分である「キャピトル」があって「ゼウス神殿」が建っていた。
この神殿には、「ゼウス」と彼の妻である「ヘラ」、それに娘の「アテナ」が祀ってあって、神殿奥の壁面にはそれぞれの像が建っていたと言う窪んだスペースが残っていた。
現在は像は一体も残っていないが、地震で壊れてしまったのか、イスラムに破壊されたのか、それとも西欧のどこかの国に持って行かれたのか、、、。
いずれにしても、ここに限らず、この後何箇所かの遺跡では「像」を見ることはほとんどなかった。
また、この神殿に残っている6本の柱は砂岩で造られていて、コリント式と言うことだった。
その柱のうち前方のものと、その上の屋根の一部(三角形の部分)はオリジナルのものだ。
その三角形の部分に残るレリーフは鷲の像で、これはゼウスがあちこちへと飛び立てるように(浮気をするために)鷲に変身していることを表していると言うことだ。
その後キャピトルから南側に少し下って来ると、ゼウス神殿が丘の上に建っている様子がよくわかるいい写真撮影スポットがあると言うことで、「薬草商の家」に向かった。
ここは、ガイドのアーレムさんの説明では「奴隷市場だった」とのことだったが、ガイドブックには「薬草商の家」と書かれていた。 どうも、諸説あるようだ。
その場所には門が残っていて、その門越しにゼウス神殿が見えてなかなか眺めがよかった。^_^;
また、その反対側からは周囲の景色がよく見渡せた。
遠くには貯水池があって、そこまで水道橋で水を運んで来たと言う。
また南東の方角を見るとなだらかな丘が広がっていたが、その辺りにはまだ未発掘の遺跡が眠っているようで、ドゥッガ遺跡全体は70haあると考えられる中、まだ25haしか発掘されていないと言うことだった。
・・・
以下、続く・・・。