福島学院前から出発
JR福島駅から阿武隈急行に乗って福島学院前駅で下車。
今回の陸羽街道歩きはここからスタートした。 時刻は午前8時40分。
途中、「青柳神社」や「西念塚」などを見るために寄り道しつつ、宮城県でもないのに「伊達」と言う町を過ぎたりして約5km強進んで桑折町に入った。
一里塚跡を発見
すると、その先の歩道に、「桑折一里塚跡」と書かれた碑が建っていた。
その辺りは「一里壇」と言う地名が残っていたが、江戸時代には一里塚が建っていたんだろう。
ところで、瀬上宿の次は「桑折宿」となるが、この「桑折」と言う地名、何と読むんだろうか?
地元の福島県の伊達郡桑折町周辺に住んでいる人や、陸羽街道を歩いたことのある人なら読めるだろうが、それ以外の人はなかなか読めないのではないだろうか。
「桑折」、、、これは「こおり」と読むらしい。
と言うことで、「桑折(こおり)宿」と言うことになる。
福島県の伊達郡桑折町
ところでこの桑折町がある「伊達郡」は、あの戦国武将の伊達氏から付けられた名前、と言う訳ではなく、元々「伊達(元は因達『インダテ)』」と呼ばれていたこの辺りの土地に中世の頃常陸の国から移って来た関東武士が伊達氏を名乗った、と言うことらしい。
と言うことで、宮城県でもないのに「伊達郡」にある桑折町に入ると、その先1.3kmほど歩いたところに、「歴史の小径」と書かれた案内表示が建っていた。
この案内表示は、この後も桑折町の中を歩いていた時に何カ所かで見たが、これは桑折町が自分の町の歴史的な遺産の保存と公開にかなり力を入れていると言うことなんだろう。
伊達朝宗の墓所
それで、その「小径」と示されている脇道に入って行くと、その中の一カ所が「伊達朝宗の墓所」と書かれていた。
「伊達朝宗」と言えば、あの戦国武将の「伊達政宗」に名前が似ているぞ!? これは伊達政宗と関係がある人ではあるまいか・・・。
と思って見に立ち寄った。
すると、脇道から更に脇道に入った先の一角に、ひっそりとしたお墓が建っていた。
そこが「伊達朝宗の墓所」だった。
調べによると、朝宗は平安末期の武将で、戦功によりこの地を賜り伊達氏を名乗ったと言うことで、伊達政宗のご先祖様と言うことのようだった。
桑折宿に入った
元の道に戻って歩くと、その先で道はT字路にぶつかり右へ折れるが、その辺りからが「桑折宿」のようだった。
そのT字路のところには「桑折寺」が建っていたが、その寺の山門は、天文17(1548)年西山城主伊達晴宗がその城
を破却して米沢城に移る際、城門を桑折寺が拝領して移築したものだと伝えられていると言うことだ。
そして元々は屋根は茅葺だったが、町内防火の見地から昭和55年に銅板葺になったと言う。
そう言われれば、寺の門にはちょっと似つかわしくない門かな?、と言う感じだった。
旧伊達郡役所
桑折宿に入って数百mほど進むと旧道は左に折れるが、その交差点の右手の先突き当たりには、明治時代の建物が建っていた。
それは、重要文化財の「旧伊達郡役所」だった。 現在は町の文化記念館として使われていて、入場が自由だったので中に入って見学をした。
ちょうどこの時期、2階では「日本三大銀山 奥州半田銀山資料展」が開催されていた。
この資料展を見てわかったことだが、桑折町の北西部には半田山があって、江戸時代にはそこから銀や金が産出されていたと言うことだった。
石見銀山は世界遺産に登録され有名だが、半田銀山の存在は恥ずかしながら知らなかった。
いやぁ~~、勉強になったなぁ~~。^_^;
しかし、この資料展を見学中、後にも先にも誰ひとり、他の見学者がいなかったのは如何にも残念でもったいないと思った。
「おもてなし処 桑折御蔵」で、ひと休み
旧道に戻って歩き始めると、その先で左手に日除け暖簾に「
おもてなし処 桑折御蔵」と書かれた建物があった。
そこでちょっと中を覗いていると、中から50代後半くらいの女性が出て来て、「どうぞ、中に入ってお休み下さい」と声を掛けられた。
福島学院前から歩き始めて距離はまだ8km弱ほどしか歩いていなかったが、その頃11時20分を回っていて、まだ一度も休憩をしてなかったので、そこで休憩を取らせてもらうことにした。
引き戸を開けて一段高い畳み敷の部屋に入ると、部屋の中にはストーブが焚かれていて暖かく、手前の座卓の回りには年配の女性が3人座っていて、奥の炬燵には30代くらいの女性が2人炬燵に入っていた。
そこで腰を下ろすと、早速暖かいお茶とお茶菓子、自家製のたくわんなどを振る舞ってくれた。
そこにいた女性達は当番制でこの施設を運営している地元の女性達と言うことで、あれこれと話をしているうちにあっと言う間に25分ほど過ぎてしまった。
いやぁ~~、居心地がいいもんだからつい長居をしてしまった・・・。
それでお礼を言って、先を急ぐことにした。
無能寺の御蔭廼松
そこから真っすぐに500mほど歩いて行くと、左手に「無能寺」と言う寺が建っていた。
山門を入ってみると、目の前には何とも立派な松の木があった。
その松は、「御蔭廼松(みかげのまつ)」と呼ばれている松で、樹齢が400年くらいになると言うことだった。
追分だ!
そしてそこから更に500mほど進むと、道は二手に分かれていた。
そこは「追分」で、左手の道は「羽州街道」、右手の道が「奥州街道」となっていた。
「羽州街道」はここで奥州街道と分かれた後は山形、秋田、弘前を通って青森市の「油川宿」で奥州街道と再び合流する58次の街道となっている。
いやぁ~~、、、陸羽街道はここで分かれてこの先は奥州街道か、、、そして青森の三厩まで続く訳だが、まだまだ他にも街道はたくさんある・・・。
こりゃ、いろんな意味で、たまらんねぇ~~! ^_^;
・・・
以下、続く・・・。