サナヒン修道院の見学を終えると、その後はこの日宿泊するセヴァン湖のほとりにあるホテルへと向かった。
山上の住宅地
バスが出発すると、来る時に通って来た集合住宅の間を抜けて行った。
この辺りで、海抜は1,200mあると言うが、こんな山の上で暮らしていて、子供の学校とか、日常の生活をする上で不便はないんだろうか?
また、買い物などはどうしているんだろう、、、そんなことを思ってしまった。
キロヴァカンを通過
修道院を出発してから1時間ほど走ると、バスは「キロヴァカン」と言う町に入った。
そこは1930年代に造られた町で、住民の多くは出稼ぎに出ていて、秋になると戻って来ると言うことだが、現在はほとんど産業はなく、工場なども稼働していないと言うことだった。
国全体としても失業率が高いために、こうした状況は国のあちこちの町でも見られるのだろう。
何せ、国内に住むアルメニア人よりも国外に住むアルメニア人が多いと言うお国柄。
この失業率の高さと言うことも大きな原因のひとつなんだろう。
そこから更に30分ほど走ると右手にはロシア人が多く住む村があった。
そこに住むロシア人は、1830年代にエカテリーナ2世によってロシアを追放された人達と言うことだった。
ディリジャンに入る
その少し先で、バスは「ディリジャン」と言う町に差しかかった。
この町にもロシアスタイルの家がしばしば見られたが、それは屋根のところが木で造られているので見ればわかると言うことだった。
車窓から見ていると、確かに屋根の部分だけ木で造られた家があった。
また、その辺りには「ディリジャンの森」があり、森が少ないアルメニアの中では貴重な森だと言うことだった。
その森の中には、キツネ、ヤギ、ウサギなどがいて、中でもオオカミが一番多く住んでいると言うことだった。
トイレ休憩
バスはその先でトイレ休憩と言うことで、モーターホテルの前で止まった。
もちろん、トイレは有料だったが、ここではトイレには入らず、皆さんがトイレを利用している間に、周辺を散策していた。
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アルメニアの兵士達
ところで、そこにはアルメニアの兵士の車が止まっていて、バスから降りてトイレに向かう我々を見ている兵士がいた。
彼らも休憩のためにそこに車を止めているように見えたが、最初は遠くにいたのでよくわからなかった。
しかし、トイレ休憩を終えてその辺りで写真を撮ったりしていると、彼らのうちの3~4人がこちらに近づいて来た。
まだ若い、、、恐らく20歳前後だろうか、、、そして背は高く皆180cm以上はあるくらいに見えた。
身体は細く、見た感じ、モジリアーニの絵の中から出て来た人のような印象だった。
彼らは何するでもなく、片手の掌に入れた豆のようなものをポリポリとかじりながら、我々をじっと見ていた。
その様子は、何か見慣れないものでも見ているかのようでもあった。
しかし、そこにいるのは銃器こそ持ってはいないが、迷彩服を着ている現役の兵士達だ。
カメラを向けてはまずいだろう、、、と思って写真は撮らず、それでもコミュニケーションが取れたらいいかな?と思って片言の英語で話しかけたが、全く反応がなかった。
それでも彼らはじっとこちらを見ていた。
それで、言葉が通じないなら、と思って、帽子をとってお辞儀をしてみた。
すると、それまでほとんどリアクションがなかった彼らの中の一人の表情が大きく変わって、「お~!」と言う反応を見せて頬が緩んだ。
それで、もう少し何か、、、と思っていた時に、向こうに止めてあった彼らの車のところから彼らを呼ぶ声が聞こえて来たので、彼らは急いでその車のところまで戻って行った。
彼ら兵士達がサクサクと乗り込んだ車(軍用車両ではなく、普通のライトバンのように見えた)が我々の前を走って行く時には、車の窓を開けて我々に手を振ったり、親指を立ててグー!の表現を示していたり、またある兵士は何か声を発していたりした。
そんな様子を見ていたら、彼らは日本人を直接見たのは初めてだったのかもしれない、と思った。^_^;
ホテルのスタッフ
また、そのモーターホテルのスタッフが近くにいて、写真を撮らせてもらおうと思ってカメラを向けると軽くポーズを取ってくれた。
なかなか愛想がいい人達だ。^_^;
それで、早速モニターで今撮った画像を見せると、自分の携帯電話を取り出して何やら言い始めた。
その様子から、今撮った画像をその携帯電話に送ってくれ、とでも言っているんだと思った。
しかし、こちらはデジタルカメラだ。
その場で送ることは出来ないのだ。
それで、念のためにその携帯電話を見せてもらうと、ほとんどがわからない文字、、、恐らくアルメニア語だったんだろう、そんな文字であれこれと表示されていたので、こりゃダメだ、と思って、その男性にゴメンナサイをして失礼させてもらった。
その時感じたが、どうもこちらの電話番号の表示が、日本の番号の表示の仕方と今一違うようなのだ。
まぁ、今まで日本人以外の人と電話番号の交換をしたことはないので、海外での番号がどうなっているかも知らなかったが、、、。
ところで、これと同じことをグルジアのテラヴィの町を散策していた時にも経験した。
そこで出会って、写真を撮らせてもらったら、「何か書くものはないか?」と言うジェスチャーをされたのでメモ帳を渡すと、どうも、その男性は彼の携帯電話の番号を書いたようだったのだ。
さて、トイレ休憩も終わり、そのモーターホテル前を出発すると、その後はノンストップでホテルへと向かった。
セヴァン湖について
セヴァン湖は、アルメニアのほぼ中央に位置するアルメニア最大の湖で、海抜は約1,900mと、世界で最も高地にある湖の一つと言われている。
元々は3,000k㎡以上の広さがあったが、ソ連時代に潅漑に大量に使用されたため、水量が大幅に減ってしまい、年々小さくなっていると言う。
また、その名前はトルコ東部にある「ヴァン(またはワン)湖」から来ていると言うことで、アルメニア人にとっては、トルコのヴァン湖を連想させる湖となっていると言うことだった。
そして、このセヴァン湖に沿って鉄道が敷かれ、その向こう、東側には山脈が控えていた。
その山脈の向こうわずか数kmのところにはアゼルバイジャンとの国境が走っていた。
アルメニアとアゼルバイジャンは関係があまりよろしくない、、、と思うと、先ほど兵士達を見たこととも併せて、日本にいては感じられない緊張感があった。
一路、ホテルへ
バスはそのセヴァン湖に沿うようにして走って行ったが、その道はあまりいい状態ではなかったようだ。
途中からバスの速度はかなり遅くなり、ところによっては徐行もしていた。
舗装はされていたようだが、運転手のノリックさんはとにかくスピードを控えて運転していた。
セヴァン湖を右手に見るようになってからは、更にバスの速度は遅くなった。
レストランで夕食
そして、午後7時10分を過ぎた頃、漸くセヴァン湖近くにあるホテル「アヴァンマラクツァパタグ」に到着した。
しかし、時間も時間なので、そのままチェックインは後にしてまずはレストランで食事をしてから、と言うことになったが、このホテルにはレストランがなかった。
と言うのは、すぐ近くに系列のレストランがあり、そこで夕食を摂るとのことで、そのレストランへ直行した。
そのレストランは、ホテルと同じような造りで大きな石を積み上げて造られていた。
それは、東トルコを周った時によく見かけた家の造り方と同じで、トルコが近い、、、と言うか、トルコとアルメニアとの関係が想像された。
また、そのレストランには我々以外の客はなく、広いレストランは我々の貸し切り状態だった。
が、料理の内容は至って質素な感じだった。
そして、メイン料理は、「シガ」と言う淡水魚を煮たものだった。
その「シガ」と言う魚は、 ソ連時代にソ連から持ち込んでセヴァン湖で育てている魚だった。
食事を終えて外に出ると、まだ日が沈む前だった。
その時時刻は、午後8時20分を過ぎていたが、まだ周囲は結構明るかった。
そして、すぐ近くでは、羊飼いの男性が羊の群れを追っていた。
その様子から、どうやらこの近くの住人らしかった。
ホテルまではバスで戻ります、と添乗員のIさんが言っていたが、ほとんど皆さんは「歩いていきます」と言って、三々五々、歩いてホテルへと向かった。
ホテルへはレストランから歩いても数分ほどだった。
・・・
以下、続く・・・。