サマルカンドの昼食
シャーヒズィンダ廟群の見学を終えた後、集合時間に数分遅れてバスに戻ると、そこからほんの少しだけ移動して、昼食を摂るレストランに向かった。
そして、バスから降りて行くと、我々は「PLATAN(プラタン)」と言うレストランに入った。
そのレストランは、ガイド本の「地球の歩き方」にも掲載されていた、サマルカンドではちょっと有名な「ウズベク・ヨーロッパ料理」の店だった。
出て来た料理は、いつものような前菜のサラダとスープ、それに、ケバブ風の肉料理だった。
ホテルに戻って、シエスタ
そこで食事を摂った後は一度ホテルに戻った。
やはり、サマルカンドの真昼の時間は気温が高くて、外で観光するにはちょっと厳しい環境と言うことで、ホテルでシエスタとなったのだ。
ホテルには午後2時過ぎに着いて、その後約1時間半のシエスタとなり、午後3時半に再びホテルのロビーに集合して、それから午後の観光と言うことになった。
さて、シエスタと言っても1時間半もフリーな時間なのだから、いつもなら散策に出るところだが、やはりブハラのシエスタタイムと同じように、散策に出る気持ちが萎えてしまうような外の暑さだった。
それで、おとなしくホテルの部屋で、昨日買って来て部屋の冷蔵庫に入れて冷やしておいた瓶ビールの「BARLOS」と言う銘柄を開けて飲むことした。
むぅ~~、
やはり、暑い時には冷えたビールに限る!!(^_^)v
と言うことで、500mlの容量だったが、それを1本飲むと、何だか眠くなって来て、少しの間ベッドの上でうとうとしてしまった。^_^;
午後の観光、まずはレギスタン広場へ
そして、午後3時半にホテルのロビーで集合すると、レギスタン広場へと向かった。
そのレギスタン広場は、昨日ホテルにチェックインした後散策でスーパーに行く途中の右側にあった広場だったので、そう距離のあるところではなかった。
と言うことで、全員でそこまでは歩いて行った。
ホテルを出て歩いていると、東村山のMご夫妻の奥さんが、「☆丸さん、休み時間に早速歩いて来たの? 随分と顔が焼けて赤くなっているようだけど・・・」と言われてしまった。
いやぁ~~、
さすがに、ビールを飲んで、、、とは言えなかった、、、^_^;
レギスタン広場
レギスタン広場にはゆっくり歩いても10数分で到着した。
そこには、大きなメドレセが3つ、広場を囲むように建っていた。
*レギスタン広場:レギスタンとは“砂地”の意味。 チンギス・ハーンの来襲以後、アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業の中心地となった。
主要道路の交差点であったレギスタン広場は、公共の場として機能も果たし、謁見式や閲兵、罪人の処刑なども行われていた。
(中略)
広場が現在の外観を得たのは、後のシャイバニ朝の支配者、ヤラングトシュ・バハドールによって、更に二つのメドレセが建てられて以来のことだ。
ソ連時代に修復が行われ、時代とともに堆積した土が2m以上も取り除かれたと言う。(「地球の歩き方」より)
ティラカリ・メドレセ
ガイドのザファールさんからレギスタン広場の説明を聞いた後、我々は、まず正面に建っている「ティラカリ・メドレセ」の中に入った。
*ティラカリ・メドレセ:1660年に建てられた神学校。 広場から見て正面にあたるこのメドレセは他のふたつのメドレセとはかなり異なった外観で、広場の安定した調和に一役かっている。
中庭に入って左側、青のドームの下に礼拝所があり、その荘厳さから“ティラカリ(金箔された)”と言う名が採られている。 当時すでにビビハニム・モスクが廃墟となっていたため、サマルカンドの主要礼拝所としても使われた。
修復に3kgもの金が使われたと言う礼拝所は、まさに息を飲む美しさだ。
ミフラーブと壁面は星と植物、アラビア文字をモチーフにした鮮やかな模様で飾られ、まばゆく輝いている。 その技巧もすばらしい。
建物の北側には、ソ連時代に修復されたときの様子が展示されている。(「地球の歩き方」より)
そして、そのメドレセの中のメインのモスクに入ると、壁面から天井に至るまで豪華と言うか、煌びやかな装飾が施されていてそれらを前にして思わず息を飲んでしまった。
そんな中モスクの中が多少暗かったので、ザファールさんがライトで一部を照らして見せてくれた。
すると、壁にはアラビア文字をデザインした金色の文字が浮かんでいた。
そんな装飾を見ていると、修復するだけで3kgの金を使ったと言うのが納得出来た。
ミフラーブから説教台までこれほど豪華に装飾されたものを見たのは、もしかして初めてだったかもしれない。
そして、南側に行くとそこにはスザニが展示されている部屋があって、我々がそこに近づくと入口のところに張られていたロープが外され、中には言っていいですよ、とでも言うように中に誘導された。
が、そこはスザニが展示されていると言うより、それらが売られているような様子だった。
シェルドル・メドレセ
ティラカリ・メドレセの見学を終えた後は、向かって右側の「シェルドル・メドレセ」の見学をした。
*シェルドル・メドレセ:かつてハナカがあった場所に建てられた神学校。 17年の歳月をかけて、1636年に完成した。 広場を挟んで向かいにある、ウルグベク・メドレセを模倣して造られたと言われている。
このシェルドルとは、“ライオンが描かれた”と言う意味で、入口アーチに小鹿を追うライオン(虎に見えるが)が人面を帯びた日輪を背に描かれている。
本来イスラームの文様は、その教義に基づいて偶像崇拝を否定する立場を取り、人や動物の姿をモチーフにすることはタブーとされている。 あえて禁が破られ、このようなデザインが描かれたのは、支配者が自分の権力を誇示しようとしたためらしい。 しかしその代償に、建築家が責任を取って自殺したと言う伝説も残っている。(「地球の歩き方」より)
このメドレセで特徴的なのは、まさに入口のアーチに描かれていた絵柄だった。
そもそもイスラム教では偶像崇拝は否定されているので、このような動物や人の顔をデザインしたものはあり得ないのだ。
だからこそ、あちこちのイスラム建築で植物やアラビア文字や星など工夫してデザインされているし、だからこそそれらが見事な美を表現しているんだろう。
それが、このメドレセでは、ライオンや人面を帯びた日輪が描かれているのだ。
恐れ多いと言うか、罰あたりと言うか、イスラム教徒にとってはとんでもないメドレセのはずだ。
ところで、これと同じような人面の背景に日輪が描かれていたメドレセを今までにも見ていた。
それは、ブハラの「
ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ」だ。
建設された時代が同じ頃なので、何か関係があったんだろうか?
具体的には、ブハラの「ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ」の方が14年、早く建っているようなので、それがサマルカンドのこのメドレセに影響を与えたのかもしれない。
さて、このメドレセの中庭に入ってみると、中庭に面した建物のところには、現在では土産物店が営業していた。
何とも、、、これだけのある意味「遺跡」と言っていい建物中には、それらの土産物店は不釣り合いに見えた。
ウルグベク・メドレセ
そして、シェルドル・メドレセを見学した後は、その向かいに建っている「ウルグベク・メドレセ」の見学をした。
*ウルグベク・メドレセ:レギスタン広場の西側に1420年に建てられた神学校。 広場では最も古い建造物だ。
ウルグベクは、自身が天文学者であったように、学芸を振興し、自ら教壇にも立ったと言われている。 当時、ここには100名以上の学生が寄宿し、イスラーム神学をはじめ数学や哲学などを学んでいた。 中庭を囲む2階建てのフジュラに学生達が住み、四隅はドーム天井の講義室となっていた。 ウルグベクが建てたキャラバンサライの収益で、教師の給料や学生の奨学金がまかなわれていた。
35mの高さがある入口アーチには、建造者ウルグベクの嗜好を反映して、青い星をモチーフにしたタイル模様が描かれている。(中略)
アーチの両側のミナレットは、“空を支える”ためにあり、おもしろいことに北側のミナレットが少し傾いているのは、その重さのせいだと言われている。(「地球の歩き方」より)
ウルグベク・メドレセの中庭に入って、そこからこのメドレセの内側を見ると、他の2つのメドレセと明らかに違うのは、部屋が2階建てになっていると言うことだ。
それが、イスラム教を学ぶ学生を宿泊させたフジュラでそれが48あったと言うから、その存在を見るだけで、ここがどう言うメドレセだったのかが伝わって来るように感じた。
また、中庭の一角には、地球儀を囲んだ数人の像があった。
恐らくそれは、天文学と言うことから、ウルグベクとその学生達を表現しているのではないか?
ガイドのザファールさんから説明があったかもしれないが、聞きそびれてしまったようだ。^_^;
警察官の怪しいセールス
さて、ざっとこれらの3つのメドレセの見学を終えると、その後はフリータイムとなって、じっくりとそれらのメドレセの見学が出来ることになった。
それでもう一度、それらのメドレセを改めて周ってみて、集合時間の午後5時の少し前にレギスタン広場のウルグベク・メドレセの入口のところに行くと、きちんとした制服を着た警察官のような人がいて、片言の英語で話しかけて来た。
それを聞いていたら、どうやら、モスクのミナレットに有料で登れることが出来るので、登ってみないか?と言っている、と言うことだった。
近くに添乗員のSさんがいたので聞いてみると、その警察官はそんなことを言っている、と言うことだった。
ど~もおかしい、、、。
Sさんに聞くと、既にそこに集まっていた人の何人かが、同じように声を掛けられたと言うのだ。
それは、どうやらその警察官のアルバイトのようで、そのメドレセでは公式にはそんなことはしていないようだった。
結局そんな怪しい誘いには乗らず、そうこうしているうちに集合時間の5時になってしまった、、、^_^;
・・・
以下、続く・・・。