朝8時、JR高崎線の倉賀野駅をスタート。
「中町」の交差点に出て駅の南側を走る旧中山道の県道121号線を500mほど歩くと「下町」と言う交差点に着いた。
そこが旧中山道と例幣使街道の分岐点である追分になってた。
その追分には今でも道標や常夜灯が残っていて、常夜灯の台座部分にはこの常夜灯を建てるために寄進をした人達の名前が刻まれていた。
その中には、大相撲の行事の名前であろう「式守鬼一郎」や「木村庄之助」や力士の「雷電為右エ門」と言う名前がわかりやすいようにペンキで塗られていた。
また、道標には「左日光道 右江戸道」と刻まれていた。
例幣使街道はその追分から左手に分かれて進む。
真っすぐな道を歩いてまずは高崎線の線路を渡り、その先の「金属工業団地」の一帯を通って進むと、その先で「綿貫町」と言う交差点に出た。
その先の小さな交差点の角に道標があったので見ると、「東 たまむら 十八丁 西 くらがの 十八丁」と刻まれていた。
それで倉賀野からここまで歩いて来た距離と、これから目指す玉村宿までの距離がほぼ同じくらいなんだな、とイメージすることが出来た。
江戸時代の旧道はそのまま真っすぐに進んでいたらしいが、現在その先は「日本原子力研究開発機構 高崎量子応用研究所 」と言う施設が建っているので止むなく左側から迂回することにした。
それでもうひとつの綿貫町と表示された北側の交差点を回って国道354号線に出るとその道は地図には「東国文化歴史街道」と表示されている、何ともいい雰囲気が漂う名前の道だった。
それで、迂回した先で高崎量子応用研究所の正門の前を通ったが、去年の3.11の前だったらそれほど意識はしなかったが、あの震災があってからのこと、「原子力」と言う文字を見ると、こんなところで何を研究してるんだろう?と、思ってしまった。
そもそも、ここに原子力関係の研究所が建たなければ、例幣使街道がちゃんと残って歩けているはずだったのだ。
まぁ、そんなことを考えながらその前を通過して進むと、その先左手にこんもりとした丘が見えて来た。
その丘の上には神社が建っていたが、その丘は「不動山古墳」と言う前方後円墳と言うことだった。
神社が建っていたところは「後円」に当たる部分で、神社の裏にはそこで発掘された「舟形石棺」が展示されていた。
資料によると、群馬県のこの辺りには古墳が数多く発見されていて、これより南には「観音山古墳」と言う古墳もあるとのことだった。
不動山古墳の前から500mほど進むと「井野川」と言う小さな川に出るが、その川の辺りで高崎量子応用研究所の中を通っていた旧道が出て来てその先から本来の例幣使街道となっていたようだ。
旧道は井野川に架かる橋よりも20mほど南のところに出ていて、そこから現在の国道354号線に出ていたようだが、そんな細かい道にも「例幣使街道」と言う表示が出ていたのには恐れ入ってしまった。
その先はほとんど真っすぐな道だった。
その真っすぐさ加減が、何とも人為的な道であることを示していた。
それは、例幣使街道の成り立ちがそもそも例幣使が中山道から日光方面に向かうために「造った」道と言うことで、まさしくバイパスと言うか、今で言う「自動車専用道路」のようなものだったんだろう。
そんな真っすぐな道を歩いて、下斉田町に入ると目の前の頭上に道路が現れた。
それは「関越道」と言うことだったので、そうすると過去にこの例幣使街道の上を関越道を車で走ると言う形で通ったと言うことになるのか、、、
まさかあの当時、こんな形でその辺りを徒歩で通るなんて夢にも思わなかった、、、と考えると面白いものだ。^_^;
さて、その関越道の下を潜った先が玉村町で、江戸時代は例幣使街道最初の宿場の「玉村宿」だったところだ。
ところで、その辺りを歩いていたら、ふと見覚えのある人の大きな顔写真が貼ってあるのを見つけた。
(あ、、、そう言えばこの人、群馬県の人だったんだ・・・)
「あなたとは違うんです」発言で、最後の方はぐじゅぐじゅになって総理大臣を辞任した人だっけ?
あれから何年になるんだろう?
今でも現役の国会議員なんだろうけど、とんと名前を聞かなくなったなぁ~~
なるほど、光陰矢のごとしだ。
・・・
以下、続く・・・。