北モルドヴァ、ブコヴィナ地方に残る修道院の中で世界遺産に登録されている修道院をメインに5つの修道院を巡ったが、それらの修道院の特徴と言えば、修道院の外壁にフレスコ画が描かれていると言うことだ。
それは、当時の文字が読めない(=聖書が読めない)住民達に、聖書の内容を絵で教えるためと言う目的があったからと言う。
普通、カトリックなどのキリスト教の教会には聖人の肖像画などの宗教画が描かれていることはあるが、外壁にそれが描かれているのは珍しいと言う。
今回周った5つの修道院の外壁に描かれていたフレスコ画は、絵の内容おいては「聖人の絵」とか「最後の審判」などの共通するテーマの絵もあったが、それぞれ特徴のある絵も描かれていた。
そして、それぞれの修道院のフレスコ画を描いた人毎に好きな絵の具があって、それよって修道院毎にフレスコ画にテーマとしている「色」を名付けられてると言うことだった。
それにしても、どの修道院のフレスコ画を見ても思うことは、これらが描かれてから数百年経っているのに、よくその時代を経て残っていた、と言うことだ。
それは、戦争などによって焼失したり破壊されたりする危険性もあったろうし、また外壁に描かれていたと言うことで太陽の紫外線や風雨にさらされて絵の保存状態が悪くなると言うこともあったと思うからだ。
実際、これらの修道院の屋根には長いひさしがあって、風雨や太陽の光から絵を守るようになっていたが、これらは創建当時にはなかったとこと。
なので、修道院によっては屋根のひさしでは守りきれない壁の下の方に描かれている絵がかなり薄くなっている、と言うところも見受けられた。
また、これはどこの遺跡でも起こりうることだが、いたずら書きが多くて、フレスコ画がかなり損傷してしまっていると言うことだ。
何とも残念なことだが、世界遺産に登録されたことがひとつのきっかけになって、今後はそのようなことが起きないようにして欲しいものだ。
①モルドヴィッツァ修道院
*モルドヴィッツァ修道院:シュテファン大公の息子、ペトゥル・ラレシュ公が1532年に建てた修道院。(中略)東面は聖母子を中心として聖人、天使たちが並んで描かれている。
(中略)モルドヴィツァ修道院で独特なのは、聖堂南面の一角に戦闘場面が描かれていることだ。626年のペルシャ軍襲来がモチーフで、キリスト教徒たちが守る砦はビザンツ帝国の都コンスタンティノープル、海を越えて攻めるのがペルシャ軍。しかし兵士の顔や装備はどう見てもトルコ軍のそれで、当時のオスマン朝に対する恐怖心が描かせたものと言われている。モルドヴァ公国とオスマン朝の関係も、この壁画と同じようなものなのだ。(「地球の歩き方」より)
この修道院は四方を厚さ1.2m、高さ6mの壁で囲まれていて、要塞としての機能を持っているとのことで、その壁の一角に出来ていた見張りの塔の下にある入口から中に入った。
カメラチップの6レイ(約150円)を払ってから中に入ると、そこから見えた修道院は小さなお堂のように見えたが、実際の建物は手前が多角形の堂になっていてその奥が方形の、日本の前方後円墳のような形をしていた。
そして、その外壁に描かれているフレスコ画を目にして、その美しさと色の鮮やかさにしばし見とれてしまった。
そこに描かれていたのは宗教画なので、本来はその内容を知っていないと理解できないことなので、それらのフレスコ画を見ても、正直何が描かれているのはわからなかった。
が、それを越えたところで、そこに描かれていた絵は素晴らしいものだと感じた。
モルドヴィッツァ修道院のフレスコ画は、「黄色」のフレスコ画と言われていて、正面のテラスの壁には左側に12使徒、右側には最後の審判の場面の地獄の様子が描かれていた。
その地獄の絵は、左上のイエスの玉座から右下にかけて火の川が流れている様子が描かれていた。
この火の川を赤く表現する描き方は他の修道院のフレスコ画でも同じだったので、この絵を見て地獄が描かれていると言うことがすぐにわかった。
そしてその地獄には、地獄から救い出されようとしている人々や悪魔に追い立てられている人々が描かれていて、ユダヤ人やアルメニア人と言った異教徒が描かれているとのことだった。
また、トルコ人はターバンを巻いている姿で地獄へ落ちて行く様子が描かれていた。
テラスがある面の左側は北面になっていて、この面はフレスコ画の劣化が激しく、下の方はほとんど見えないような状況になっていた。
張り出し屋根は1700年代に造られたとのことなので、そうなる前にもう少し何とか出来ていたら、と見ていて残念だった。
それと反対側の南面にはコンスタンティノープルの包囲戦の様子が描かれていた。
この絵は、他のフレスコ画が宗教色豊かなのに対して、626年にペルシャ軍がビザンツ帝国の城を攻めている様子がモチーフになっていると言う絵だが、攻めているペルシャ軍の姿がトルコ人の容貌をしていると言うのが特徴だと言う。
それは、626年の戦いの時はビザンツ軍はペルシャ軍に大勝利を収めているのでこの絵に描かれているペルシャ軍は負けている様子が描かれている。
しかし、この絵が描かれた時代は、1453年にオスマントルコ軍がビザンツ帝国の最後の砦であるコンスタンティノープルを陥落させた数十年後の頃で、ビザンツ軍を攻め滅ぼしたオスマントルコ軍を、626年の戦いでやっつけたペルシャ軍に見立てて描いているらしい。
当時の人々はこの絵をどんな気持ちで見ていたんだろうか・・・?
そ
の絵の右側には「エッサイの樹」が描かれていた。
その樹はブドウの木で、旧約聖書に登場する人々がひとつの家系図となってイエスに繋がっていると言うことで、旧約聖書と新約聖書を繋ぐものとして描かれているものだった。
・・・
そんなことで、一時間以上たっぷりと見学して、10時半の頃バスに乗って次の「スチェヴィツァ修道院」へと向かった。
チュムナル峠を越える
スチェヴィツァ修道院へ向かう途中、「チュムナル峠」を越えた。
モルドヴィッツァ修道院からスチェヴィツァ修道院へ向かうには、東カルパティア山脈を構成している3つの山脈の一番東側の尾根を越えて行くことになり、それで途中にチュムナル峠があった。
峠に着くと、バスを降りた先には小高い丘が見えていた。
そこには若い人達の姿があって、彼らは丘の上に建っているモニュメントの周辺に群がっていた。
そして、そこでは店と言うには形のない、テーブルを設置してその上に商品を並べて売っている人がいた。
彼らがそこで売っていたのは蜂蜜やジャムはチーズだった。
ルーマニアでは、蜂蜜が美味しいと言う話で、特に「アカシア」の花から採れた蜂蜜は品質も良く美味しいと言う噂だった。
しかし時間もそれほどなかったと言うこともあって、その場で蜂蜜を買った人はいなかったようだった。
・・・
以下、続く・・・。