午後3時40分。
弘法井戸の先の桝形の先を進むと、右手はこんもりとした丘が続いていた。
このような地形のためにその丘の辺りから地下水が豊富に湧き出て来ているんだろう。
そしてその先には「上野城跡」と書かれた標識が立っていた。
それによると、元亀元年(1570)織田信長の弟、織田信包が築城した後文禄四年(1595)分部光嘉が城主(1万石)となり、慶長六年(1603)加増され2万石となった。
その後元和五年(1619)城主光信の時、江州大溝(滋賀県高島町)へ移封となり、上野藩は廃藩となる、と書かれてあった。
織田信包は織田信長が北伊勢を支配するために長野工藤氏に養子に入れた人物で、信長によって義弟浅井長政の北近江小谷城が攻められた時に、浅井三姉妹(茶々、初、江)を保護したと言われている。
先ほどの弘法井戸の青木さんによると、この上野城に浅井三姉妹が一時住んでいて、NHK大河ドラマの「お江」の時には一時この辺りにも観光バスがやって来ていたとのことだった。
なるほどね、、、。
城址巡りは好きなので目の前にそのような曰くのある城跡があるなら是非とも寄りたかったが、今回は街道歩きが目的だったので、泣く泣く上野城跡には立ち寄らず先に進むことにした。
ひとつでも宿題を残しておけばまた訪れる理由も出来ると言うもので、それはそれでいいではないか、、、負け惜しみ・・・^_^;
上野宿を出るとその先で国道23号線に一旦出て、その国道を斜めに突っ切る形で国道の反対側に出る。
その先を進むと「中瀬町」に入る。
その先にはそれほど大きくない「高山地蔵堂」が建っている。
ここは上野城時代に罪人を処刑する場所だったところで、この地蔵堂は処刑された武士の霊を慰めるとともにこの地で不慮の災害に遭った人の菩提を弔うために建てられたと言う。
中瀬町を出ると旧道は一時国道23号線と合流し750mほど進む。
時刻は午後4時を回っていたが、久々の国道なので飲食店があるとするなら数少ないチャンスだ。
と微かな望みを抱いて進んだが、そんな望みも敢え無く叶わず、旧道は国道23号線から右へ分かれた。
その先は「栗真小川町」となっている。
左手に薪が積んである家を見つけたが、この辺りでは薪を使っている家があるんだろうか。
これから迎える冬への準備なんだろう。
目の前の近鉄名古屋線の線路を渡ると、その先で「栗真中山町」に入った。
その先で道路沿いに「海抜1.7m」と書かれた表示があった。
この辺りは海が近いためだろうか。かなり海抜が低いところが続いていた。
そう言えば、朝四日市の日永の追分を出発してからほとんどアップダウンなく歩いて来ていた。
と言うことは、この辺りは海岸沿いの平坦な土地が続いていると言うことなんだろう。
もし今大地震があったら、津波から逃げることはできないだろうな、と思いつつ、東海道静岡県の吉原宿に入った時には「津波避難ビル」と書かれた建物が何か所かにあったのを思い出した。
自治体によって対応と言うか対策が随分と違うようだ。
再び国道23号線を斜めに突っ切って反対側に出ると、そこは「栗真町屋町」になっていた。
その先で左手からやって来た「巡礼道」と合流する追分があった。
(写真では右手奥から来ているのが巡礼道、左手奥から来ているのが伊勢街道で、追分の先から振り返って写した写真になっている。)
巡礼道は約7km手前の「甕釜冠地蔵堂」が建っているところで分かれた道で、「浜街道」とか「下街道」とも呼ばれていた伊勢街道よりも古い道らしい。
その追分のところには常夜灯が建っていた。
その常夜灯は「両宮常夜灯」と呼ばれ、武蔵野国の木綿業者が天保十年(1839)に寄進して建てたと言うことが刻まれてる。
江戸時代、伊勢国は木綿の産地として有名で取り引きが盛んに行われたためにこうした形で常夜灯が寄進されたんだろう。
その先にはもう一基、常夜灯が建っていた。
その常夜灯は「孟夏の常夜灯」と呼ばれる嘉永四年(1851)に建てられたもので、自然石が使われているのが珍しい。
左面には「五穀成就」と刻まれている。
追分から400mほど進むと再び国道23号線に合流する。
歩道橋の上から国道を眺めることが出来るのも現代ならではのことだ。
この頃時刻は午後5時になっていて、辺りはそこそこ薄暗くなっていた。
ちょっと前のデジカメなら暗くてブレて写らないところだが、最近のデジカメはレンズの性能が良くなっているせいか、薄暗い状況でも結構明るく写ってしまうので、実感している暗さが再現出来ていない。
実際はもう少し薄暗い感じなのだが・・・。
性能が良くなり過ぎるのも問題だ。
歩道橋で反対側の歩道へ渡ると今度は800mほど国道を歩く。
その歩道は路面が色分けされていて、説明が書いてある訳ではないがイラストから判断すると、歩行者専用と自転車専用の走行区分が出来ているようだった。
しかも、自転車の走行区分はこっちから向こうへと、向こうからこっちへ向かう対面の区分まで矢印がそれぞれ描かれていて分かれていた。
最近自転車が絡んだ交通事故が多発して問題になっているが、そうした状況の中でこうした走行区分をしっかりと設けるという取り組みをしているなんて、津市はなんと先進的で素晴らしいんだろう!
と思って歩いていると、実態はさに非ず、だった。
前から後ろからバンバンと走ってくる自転車は、歩行者専用と思われる薄赤い路面の部分でもお構いなしに走ってくるし、青色の自転車専用の部分では、走行方向の指定を無視して何台も走り去っていった。
これではせっかく路面に造った走行区部分がまったく意味してないではないか!?
まるで仏造って魂入れず、みたいだ。
制度を作って形も造ったがそれで終わりでは意味がない。
それが正しく運用されて初めて生きてくると言うものではないのか?
と、走ってくる自転車に注意しながら、さすがは津市だ、と思った先ほどの気持ちが失せてしまった。
その国道23号線が志登茂川に突き当たると国道23号線の「新江戸橋」ではなく、右手に少しだけそれてから志登茂川に架かる木造の「江戸橋」を渡った。
この橋は江戸に向かう藩主の見送りもここまで、と言うことで江戸橋と命名されたと言う。
江戸橋を渡った先は小さな十字路の交差点になっていた。
その交差点の右角には常夜灯と道標が建っていたが、そこは右手から伊勢別街道がやって来て伊勢街道と合流する追分になっていた。
伊勢別街道は、東海道の関宿の鳥居のところからここまで続いている街道だ。
東海道を歩いた際にあの鳥居のところで、「ここから伊勢街道まで道が続いているんだな・・・」と思って見ていた道の終点に立っていたのだ。
4里ほどの距離なら一日で歩けるだろうから、思い立ったらすぐにでも歩きに来られそうだ。
さてその追分。
追分に通じている道路の道幅がどれも昔のままのようで、しかし国道からの抜け道になっているのか、先ほど渡ってきた木造の江戸橋を渡って来た車や逆に江戸橋に向かおうとする車で渋滞を起こしていた。
と言うのも、江戸橋の手前の辺りでは車がすれ違うことが出来ないみたいで、そこで車が詰まっていたのだ。
この追分も地元の人達は不便を感じるてはいるんだろうが、それでもこうして昔の状態に近い姿で残してあると言うことは街道ウォーカーとしては嬉しい限りだ。
津市に限らず伊勢街道が通っている三重県の各所でそう言った思いを感じる。
ありがたいことだ。(写真では、交差点の正面の道が伊勢別街道で、伊勢街道は右手から来ている道だ。)
と言うことで、道路を渡って常夜灯のすぐ近くまで行って写真を撮ろうとしたが、詰まっている車の間を抜けて道路の反対側に行くのも難しかったのでここは諦めることにした。
追分の交差点を左折して進むと、いよいよ津の市内に入って来た。
県庁所在地の津市の中心地に近いところに来ているはずなのに、道幅は今までとほとんど変わらず、また街道風景もそれほど変わっていなかった。
その先左手には蔵がある立派な家が建っていた。
津も太平洋戦争の際には空襲に遭ってるんだろうに、よくもこう言った家が残っているものだ。
その先には右手に津指定文化財の「酢屋・阿部喜兵衛商店」の建物があった。
醸造業の大店だったと言う。
そしてその先に進むと「上浜町」に入った。
この辺りでもまだ昔の面影が残る街並みが続いていた。
そして、二階建ての家並みが続くその向こうには、四日市市を出てから久々に高さのあるビルが見えていた。
あの辺りが津の中心だろうか、、、JRや近鉄の津駅があるんだろう。
ここまで来ると、予約している宿も近くなって来たので、チェックインしてから部屋で地酒でも飲もうと思って酒の調達を考えながら歩いていた。
そんな時、酒屋があったので入った。
チャイムがなって暫くすると奥から店の奥さんのような40代半ばくらいの女性が出て来た。
それで、
「この辺りの地酒はないですか?」と聞くと、
「この辺りのねぇ~~・・・」と少し考えてから、
「あったかしら~~」と言い出した。
そして、
「これは・・・」と言って一本の四合瓶を掴んで、
「新潟のお酒だったわねぇ~」
ダメだこりゃ・・・。
そこまで聞いて、
「ないようですね、結構です。ありがとうございました~」と言って、サクサクと店を出てしまった。
残念な結果に終わってしまった。
そして午後5時半になろうとしてる頃、津宿に入ったようで、ぼちぼち本日の終着点に到着しようとしていた。
予約していたビジネスホテルは津駅前の通り沿いにあって、伊勢街道からもすぐそばのところにあった。
・・・
以下、続く・・・。