午前11時50分。
伊勢別街道は芸濃町椋本で、県道10号線から左手に分かれて進む。
朝、江戸橋の追分から出発して、11kmのところだ。
距離にして伊勢別街道の約6割を進んで来たことになる。
その先すぐ右手に「仁王経」と刻まれた大きな石碑が建っている。
これは「下の仁王経碑」と呼ばれ、椋本宿の関宿側にある横山池の傍にも「上の仁王経碑」と呼ばれる石碑が建っている。
これは文化2年(1805)に建立された自然石の碑で、疾病流行の治除が目的で、仁王経上巻6583字、同下巻5608字を小石に1字ずつ書写し、これを2部、都合24382個の小石に浄書し、それが1部ずつ分けられて村の西(上)と東(下)の碑の下に埋められていると言う。
なんとなくその前を通り過ぎそうな石碑だが、この下にすごいものが埋まっていると言うことだ。
石碑の前には花が活けてあって、今でも地元の人達に守られていることが伺われる。
その先右手には「延命地蔵堂」が建っている。
この地蔵堂は正徳五年(1715)、この付近に住んでいる人達が短命で亡くなる人が多いために住民達で相談して建てたと言う。
以前はお堂の裏に講の田があり収穫した米で維持されて来たが、今は70軒からの講で守られ、毎月24日にはお参りの人が絶えず、2月24日はその年の最初の祭りで盛大に行われると言う。
お堂の前には内履きが置かれてあり、中に入れそうだったので中に入ってお参りした。
また、お堂の前右手には「手水鉢」があったが、これは文政四年(1821)のものらしい。
資料にはその年が刻まれていると書かれてあるが、確認できなかった。
その先を進むと、三交バスの椋本新町のバス停がある。
この辺りは既に椋本宿に入っている辺りのようで、センターラインのある道路なので拡幅されているようだが、宿場町の面影を感じられる町並みになっている。
その道を真っ直ぐに数百m進むと、桝形のような角に突き当たる。
その右手には、国登録有形文化財の「角屋旅館 本館」が建っている。
そこはちょうど椋本宿の中程のところで、その名前が示す通り角地になっている。
津市教育委員会による案内板には、「本館は 木造切妻造桟瓦葺の二階建てで、街道に面した面構えは摺り上げ戸を主体とする一階イ部分と引き違い戸の外側に格子を蜜に入れた二階部分がよく保たれています。背面には両下造桟瓦葺の廊下を解して、2客室からなる木造平屋切妻造り桟瓦葺の名晴れが連なり、本館、廊下、離れで坪庭を囲います。」と書かれている。
正面の軒下には参宮講札が何枚も掛かっていて、往時の盛況ぶりが伺われる。
なお、現在でも旅館業を営んでいるようで、裏手の方に回ってみると、別棟の建物が建っていた。
伊勢別街道はその角を左に曲がって真っ直ぐに進む。
200mほどで再び突き当たる。
その突き当りの左角には、自然石の道標と木製の標柱がある。
道標には「左さんくう道」右側面に小さく「右榊原」とあり、江戸時代後期のものと思われる。
木製標柱(道路里程標)は、「津市元標へ三里三拾三丁八間」「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と記されている。
これは、明治時代に道路の起点・終点・分岐点などに設置されたもので、明治43年(1910)7月に建てられたと言う。(現在の木製標柱は二代目)
・・・
ここから伊勢別街道とは少し離れて、その道標がある分岐点の近くに建っている光月寺の裏手にある国の天然記念物の「椋本の大椋」を見に行った。
椋本の大椋とは椋本の地名の由来になった大木とのことだ。
案内表示に従って光月寺の裏手に回ると、ありました!!
お~~!
これがその大椋か!
実際に見るまで、これほど大きい木だとは思わなかった。
それにしても大きな木だ。
案内によると、高さは18m、周囲8mで樹齢は1500年以上と言われている。
「嵯峨天皇(809~822)の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の家来、野添大膳父子が伊勢路を流浪し、この地に逃れた時、巨大な
ムクの木を見つけ、その下に草庵をつくって住んだ。」と言われ、それが椋本の発祥だと言い伝えられていると言う。
いやぁ~~、
これは、結構なものを見たぞ。
・・・
再び道標のある分岐点に戻ってその角を右へ曲がると、すぐ先右手には石垣の名残がある空き地がある。
三重県発行のマップには、「駒越五貞氏の家:現在廃屋。明治天皇が参宮の際御宿泊したとされる。」と書かれているが、それらしい家が見当たらず、どうやらその空き地がその場所ではないかと思われる。
明治天皇の宿になったと言うので、恐らく椋本宿の本陣だったところなんだろう。
その空き地の様子、と言うか雰囲気からすると、更地になってからまだそう時間が経っていないようにも思える。
マップにはその建物の写真が載っているので、10数年前には少なくとも存在した建物だったようで、それが確認出来なくなったのは何とも残念だ。
400mほど進むとそこは桝形になっていて、右折してその先ですぐ左折する。
江戸時代にはその辺りに問屋があったと言う。
それにしても、飲食店、一軒くらいあってもよさそうなのに、ないなぁ~~。
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以下、続く・・・。