午後1時50分、国道6号線から右に分かれて旧道に入ると、すぐ右手に旧道の案内標柱が建っている。
それによると、水戸道中は
「松戸市内は大部分が国道6号線として整備され、大きく変貌しましたが、現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。」と書かれている。
確かに、道の感じがいい。
街道歩きをしている人はいろいろな楽しみ方をしているが、私の場合は、昔からの史跡や遺跡も好きだがこうした道そのものも好きだ。
こうした昔ながらの道を歩いていると、江戸時代の人達がどんなことを考えながら日々この道の上を歩いたのかな?と思いをはせてしまう。
その道を進んでJR武蔵野線の高架下潜った先には「甕の土留め壁」なるものがある。
遠くにそれを見た時は「何だ、あれは?」と思った。
そして近付いてみると、そこには壁一面に甕の蓋が見えていた。
どうやら、甕を蓋毎そっくり壁に埋めているみたいだ。
これは石垣の石の代わりなんだろうか?
こんなものを見たのは初めてだ!
その先少し歩いた所で旧道は国道6号線に出て、そこを斜めに突っ切って進む。
その辺りは「二ツ木」と言う住居表示になっている。
その先左手には、普化宗金竜山「一月寺」が建っている。
この寺は鎌倉時代初期に金先禅師に寄って創建されたと言われていて、江戸時代には青梅の鈴法寺とこの一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括したと言う。
「普化宗」ってなんだ? どんな宗派なんだ?、、、聞いたことがないぞ。
それで調べてみたら、禅宗の臨済宗の一派とされているらしい。江戸時代の尺八を吹きながら旅をする虚無僧が正にそれで、この寺は虚無僧の総本山とも言われていると言う。
しかし、明治四年の太政官布告によって廃止され、鈴法寺は廃寺になり、一月寺は日蓮正宗の寺に改宗したと言う。
その辺りは、松戸宿の次の「小金宿」に入っているようで、一月寺の少し先左手には、古い連子格子の建物が建っている。
それは、江戸時代は小金宿で「玉屋」と言う屋号の旅籠だった「鈴木家」の建物だ。
その少し先右手には、「大塚本陣」や「日暮本陣」があったらしいが、現在は残っていない。
ただ、JR北小金駅に真っ直ぐに向かうその旧道には街灯に「小金宿」と言う文字が書かれていて、そこにここが水戸道中と言う旧道の宿場町であったと言う痕跡を見ることが出来る。
真っ直ぐに進んでJR北小金駅に突き当たる手前の交差点で旧道は右折する。
亀有の手前にあった大曲のような曲がり方だ。
その交差点の向こう右角に建つイオンの前に「道標」が二基建っている。
道標が建っている反対側のこちらの歩道から見ると、そこには新しい方には「右水戸道中」とはっきり大きく刻まれ、古い方には「右水戸海道」と刻まれているのが微かに確認できる。
そして、その向かって右隣には「小金鎮守 八坂神社御跡地」と刻まれた石碑が建ってる。
その先を暫く道なりに進んで、再び国道6号線を左から右へ斜めに突っ切る形で越える。
その先左手には「根木内歴史公園」があったので、そこで小休止。
その公園の入口には公園内の説明が書かれてあって、それとは別に「放射線量測定値一覧表」と書かれた紙が貼り出されていた。
そこには「汚染土埋め穴」と言う文字もあったので、改めて見ると、その公園の一角、と言うか入口のすぐ近くに、汚染土の埋め穴があると書かれてあった。
道理で、、、
広い公園にしては、人影が少ないはずだ・・・。
この公園自体は、松戸市内に10か所以上あった戦国時代の城郭跡のひとつで、15世紀中頃原氏か高城氏によって築かれた城だと言う。
松戸は東京のベッドタウンとして急速に市街化が進む中でそれらの城郭跡はどんどんとなくなり、現在はここを含めて二か所しか当時の面影を残してはいないと言う。
東西200m、南北500mの規模を誇り、空堀、土塁、土橋等がよく残されていると言う歴史公園だ。
余裕があればゆっくりと公園内を散策してみたい所だが、この日は街道歩きをしていたので、散策は後日と言うことにして、先に進むことにした。
さて、午後2時40分。
一休みして、水戸道中歩きをスタート。
公園のすぐ先の「根木内城址橋」を渡って進むと緩やかな登り坂になる。
その坂を登って行くと、途中に「松戸市」を出ることを示す案内板が掛かっている。
と言うことは、これから先は柏市と言うことだ。
・・・
以下、続く・・・。