午前9時35分過ぎに富岡製糸場に着く。
入口を入った所にある受付で上信電鉄との共通券を出すと、「今、ガイドの説明が始まったばかりですから、急いでください。」と言われた。
富岡製糸場では、解説ボランティアによる説明会を行っていて、朝の9時30分開始の後は、10時、11時と、午後1時、2時、3時、4時に行われている。
一回の説明会は所要約1時間で、見学可能な場所をぐるっと周って説明してくれる。
これらの説明会に参加しないで個人で周ることも出来るし、団体で解説ボランティアを頼むことも出来るようになっている。
それで、その解説ボランティアによる説明会に参加しようと思っていたが、時間的に9時30分スタートの会には間に合わないと思っていたので、10時スタートの会に参加しようと考えていた。
ところが受付でそんなことを言われてしまった瞬間、条件反射的に「急がなきゃ・・・」と思って、20mくらい先で始まっていた説明会に慌ててバタバタと走って行って加わった。
それで、恐らくその時の説明の内容からして、この富岡製糸場の概略について話していたんではないかと思われたので、まずはほっと安心した。^_^;
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見学できる施設は、手前の「②東繭倉庫」と向こう奥の「③西繭倉庫」、そして、両繭倉庫を90度の角度でつなぐように建っている「①繰糸場」だ。
西繭倉庫
ここは、入り口を入って、正面奥に横になる形で建っている。
時代によっては、蒸気機関の原料となる石炭を貯蔵する場所として使っていたらしい。
東繭倉庫
入口を入ったところの正面に建っている。
繰糸場
両繭倉庫や繰糸場とも、杉の木を使った木骨構造にレンガで壁を使っているのが特徴だ。
レンガは群馬県の瓦職人が近隣の土を使って焼いたものを使ったと言う。
そのレンガの積み方は「フランス積み」と言う方法で、見た目は綺麗だが、崩れやすいと言う特徴を持っていたようだ。
繰糸場の内部
中央に柱を設けず、梁と屋根の三角形の柱で力を分散させる当時のフランス式の建築だと言う。
現在ではあちこちで見かける工法だが、当時は珍しかったらしい。
左右にある機械は、昭和62年まで動いていたと言う機械。
向かって左の機械はプリンス製で、右の機械は日産製とのこと。
プリンスとは、プリンス自動車のことで、左右で違う会社の機械を導入していたのかと言うとそうではなくて、右の日産製の機械は、日産とプリンスが合併した後に導入した機械と言うことだ。
また、創業当時はまだ電気がなかったので、窓を多くして外光を出来るだけ取り入れたと言う。
そして、その窓に使ったガラスは当時の日本では製造出来なかったので、フランスから輸入したと言うことだった。
ところで、この富岡製糸場のことについては、明治時代に出来た製糸工場くらいの認識しかなかった。
それで、その後説明を聞いたことで知った(恐らく皆さんはご存じだろうと思われる)ことがいろいろがあった。
①富岡製糸場は明治5年に完成した官営の製糸工場で、その後三井家に払い下げられた後、原合名会社に譲渡され、その後株式会社富岡製糸所として独立したが、昭和14年(1939)には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併されたと言う。
そして、驚くことに、昭和62年(1987)まで操業していたと言うのだ。
原合名会社と言えば、横浜の観光地としても有名な「三溪園」を造った「原三溪」の、あの会社だ。
三溪園を見学した時に、原三溪は、生糸で財を成したと聞いていたが、それはこのことだったのか~!、と言うことだった。
それと、昭和62年まで操業していたと言うことについては、ホントにびっくりだった。
それだけの歴史を持つ会社なら、この工場の操業が止まった時は、かなりのニュースになっただろうが、どうも記憶にないのだ。
②明治の創業当時に女工さんとしてここで働いていた女性達は、地元群馬県の人達ではなかったと言う。
それはどういうことかと言うと、全国から女工さん達が集まってここで製糸の技術を学んで、そして地元に帰ってそこで製糸業の普及に尽くしたと言うのだ。
そして、その集まった女工さんの約半数は、旧士族出身の人達だったと言う。
地元の女性達をここの女工さんとして育てて、その後全国各地に製糸の指導者として転出して行ってしまったら、地元の女性がいなくなってしまう、、、と言う問題があったと言うことらしい。
「女工さん」と言うと、とかく暗いイメージがあって、厳しく辛い労働環境の下で働いていたと思っていたが、どうも、ここではそうではなかったようだ。
ここは、昭和15年に建てられた
三代目の診療所。
隣りには病棟も建っている。
官営の頃は、薬代・治療費は工場側が負担していたと言うから厚生面はかなり充実していたようだ。
③この製糸場を建てその後工場での指導に当たった責任者は、当時横浜のフランス商館に勤務していたポール・ブリュナだったが、当時彼は32歳だったと言う。
女工さん達は技術の違いで「一等工女」「二等工女」「三等工女」「等外工女」と分かれていたが、その中でも一番技術が高かった一等工女の月給が1円75銭だった時代に、ブリュナの月給は600円だったと言う。
しかも、彼には600円の他に、150円の賄い料がが支給されていたと言う。
ま、これが高いとみるか、妥当と見るかはいろいろと意見があるだろう。
これは、
ブリュナが家族と住んでいた住宅。
明治8年の契約満了の時まで住んでいて、ブリュナが出て行った後は、女工さん達の夜間学校として使われたと言う。
そんな話も途中であれこれと聞いて、約1時間の説明会は終わった。
その後、もう一度個人的にぐるっと周って、じっくりと見学した。
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以下、続く・・・。