午前10時10分、利根川に架かる大利根橋を渡り終えていよいよ茨城県に入ると、そこからは利根川沿いの通りの県道11号線を歩いてJR常磐線の高架下を潜って進む。
約500m歩いた所で右手の路地に入って行って、利根川河畔に出てみる。
その辺りが利根川を渡しで越えて来た時に着いた場所のようだ。
そこから見ると、JR常磐線の鉄橋の向こうからこの辺りにやって来たんだろう。
現在は広い河川敷になっているが、江戸時代の利根川とはかなり様子が違っていたと思われる。
そこから水戸道中の道を辿るように東側を見ると、堤防を降りて真っ直ぐに道が続いている。
と言うことで、そこから水戸道中が復活しているようなので進むと、旧道はその先の交差点を右手に進むが、そこを突っ切って真っ直ぐに進むと、臨済宗の長禅寺が建っているので、立ち寄ることにする。
長禅寺は慶安2年(1649)将軍徳川家光より寺領5石3斗を賜る朱印状の交付を受けて以来、明治維新まで歴代の将軍より朱印状を受けていたと言う。
また市内に残る石造遺物の約6%がここにある言うことで、取手市内では代表的な寺院のようだ。
長い階段を登って行くと、山門には「相馬霊場総本地」と書かれた看板が掛かっている。
相馬霊場とは、観覚光音禅師が四国八十八ヶ所を訪れ札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔に埋めて開基したと言われていて、長禅寺はその発願・結願寺になっていると言う。
本場の四国の霊場を周ると約1200kmにもなるが相馬霊場は約60kmと言うことで、四国に行って霊場を周らなくても手軽にそれと同じ御利益が得られると言うことなんだろう。
その相馬霊場は約250年の歴史があると言うことで、江戸時代にはさぞや流行ったことだろう。
帰宅してから調べてみたら、我孫子市内を通った時石柱などが残念な形で放置されていた「大光寺」は第42番、鯖大師が祀られていた「円福寺」は第55番の札所になっていることがわかった。
そう言えば、円福寺境内にはやたらと「五十五番」と言う文字が書かれていた。
(円福寺の様子→)
長禅寺の山門を潜ると正面には茨城県指定文化財の三世堂が建っている。
この堂は外観は2層だが内部は3層になっていて、1層に坂東三十三か所観音札所、2層に秩父三十四か所観音札所、3層に西国三十三か所の各本尊の写しを安置していて、合計百体の観音像があることから、百観音堂と呼ばれていると言う。
また建物の構造は「さざえ堂」の形式になっていて、上り階段と下り階段が別々になっていて、堂内では参拝者が交差せずに周れるようになっていると言う。
残念ながら内部の一般公開はされていないと言うことで見学は出来なかったが、興味津々で、機会があれば一度見学したい。
長禅寺の参拝を終えて再び水戸道中に戻ると、ちょうどその角には「新六本店」と言う奈良漬けの店が建っていた。
江戸時代から続く店で、西の奈良に対して取手は東の奈良漬けの名産地と言うことらしい。
あのちい散歩でも訪れた店だと言う。
その隣には明暦元年(1655)以来日本酒を醸造して来た「田中酒造」がある。
この店の「君萬代」には興味があって出来れば飲んでみたいと思っていたが、街道歩きの途中で4合瓶など買ってしまうと足に負担が掛かるので買う訳意にも行かず、、、
店内に入ると買いたくなってしまうために、泣く泣くその前を通り過ぎることにした。
その先で通りを歩いて行くと、街路灯に「とりで 本陣通り」と書かれた案内板が付いていた。
この通りが現在でもそのような名前で呼ばれているとは嬉しいことだ。
と思いながら進んで行くと、その先に「本陣公開中」と書かれた立て看板が道路の端に立っていた。
その前には「染野本陣ビル」と言うビルが建っていて、、、
その脇の道を矢印に従って入って行くと、正面に「公開中」と書かれた看板とその後ろに門が建っていた。
そこは取手宿の本陣があった所で、現在でもその建物が残っていて、週末の金・土・日は内部が公開されている。
江戸時代の旧街道で本陣が残っていて内部が見学出来るなんて、こんなチャンスは滅多にないことだ。
現存する本陣では、東海道の二川宿と草津宿、それに甲州道中の小原宿の本陣を見学したことがあるが、五街道以外でもこうして本陣が残っているとはちょっと意外だった。
門を潜ると、その先には茅葺の立派な母屋が建っている。
そして、内部の見学は自由に出来ると言うことで早速中へ・・・。
まずは土間を上がった所に大型のモニターが設置されていて、それでこの本陣を解体修復した際の様子が見ることが出来るとのことで、腰を下ろして見ることにした。
放映時間は18分。
そのビデオによるとこの建物は元々染谷家が所有していたが、傷みが激しくこのまま所有していくのが厳しくなって来たので取手市に寄贈したと言う。
それで取手市が本格的に修復を始め、まずは母屋の解体修復をし、その後門を修復して、2009年に全てが完了したと言うことだった。
その解体修理に当たっては、染谷本陣は明治になってからは郵便局を務めていて、歴史的見地から修復は江戸時代の姿ではなく、明治になってから郵便局を務めていた当時の姿に再現したと言う。
母屋の内部は手前の民家と奥の武士が泊まる部分に分かれていて、部屋の造り、天井の高さなどが微妙に違っていた。
手前が「三の間」、そして「二の間」で、一番奥が「上段の間」となっている。
上段の間は殿様が休憩や宿泊に使った部屋で、床が約20cm高くなっていて、奥には床(左側)と違い棚、天袋が付き、左側には平書院が付いている。
そして殿様がいる時には、天井裏と床下に家来が隠れ、警護に当たったと言われる。
ここは民家の部分。
玄関を内側から見た所。
民家の部分の土間の上の天井部分。
外に回って、床の下。
全体を見学して印象的だったのは民家の部分の室内の壁で、3.11の東北大地震の際に、改修修理をした壁はひびが入ったが、江戸時代から残っている壁は何ら問題がなかったと言う係りの人の説明だった。
江戸時代の技術は侮れず、、、と言うことなんだろう。
・・・
以下、続く・・・。