昼食の後は、諸般の事情で翌日の予定を変更せざるを得ないと言うことになり、その関係で、翌日観光する予定の所を一部、この日のうちに周りましょうと言うことになった。
その事情と言うのは、この日は別会場で行われる歌と踊りのイベントを見学することになっていたが、そのイベントの終了時間が午後11時になっていた。
そのイベントが終わる午後11時までガイドのイルマさんが我々と一緒に行動を共にすると、労働基準関係の法律で、翌日は午前9時半以降でないとガイドの仕事に同行出来ないと言うことだった。
ラトビアは労働基準がしっかりと守られている国なんだなぁ~と思える一件だったが、こんな所もドイツの厳格さが影響しているんだろうかとも思えた。
と言うのは、以前ドイツをツアーで周ったことがあったが、その際、予定時間からかなりずれこんでホテルの到着が遅れそうになったことがあった。 その時、法律で運転手が規定時間以降は運転出来ないことになっていると言うことが明らかになった。
それでその時は、レストランで夕食を摂っている間に別の運転手がやって来て、労働時間としてはわずかな時間だったが、レストランからホテルまでの運転はその別の運転手が勤めた。
それとは違うが、ドイツに行ってびっくりしたのは、稼ぎ時の日曜日に百貨店が閉まっていたと言うことだ。
これは法律で百貨店は(もしかしたらそれに準じた小売店も対象になっているのかもしれないが)日曜日は営業してはいけないと法律で決められていると言うことだった。
ドイツと言う国はいろいろと面白いなぁ~と今でも思うのは、そう言うことがいろいろあるからだ。^_^;
さて、そう言う事情のため、翌日の出発は当初予定よりも30分遅れて9時半になることになったため、前倒しと言うことでその30分を取り戻すために、この日のうちに翌日の観光予定になっている所を見て周ると言うことになった。
*リガ:約70万人の人口を抱えるラトビアの首都リガは、バルト三国では抜きん出た大都市。タリン(エストニアの首都)の古風な雰囲気やビリニュス(リトアニアの首都)ののどかさはないが、より開放的な都会の空気が感じられる。地理的にほぼバルト三国の中心に位置し、経済的にも他の都市をリードする存在だ。(「地球の歩き方」より)
さてそれで、、、。
食後はレストランを出た後、プラプラと歩きながら、まずは「三人兄弟の家」に向かった。
*三人兄弟の家:本当に兄弟のように肩を寄せあって建っている中世の住宅。外観は建てられた当時の姿をほぼ保っていて、3つそれぞれその時代を反映した特徴を備えている。(「地球の歩き方」より)
これらの建物はそれぞれ別の時代に建てられたもので、建築様式の古い順に右から17番地の「長兄」、19番地の「次兄」、21番地の「弟」と並んでいる。17番地の「長兄」は リガに現存する最も古い民家で(15世紀)、リガの運河が移動し地下水面が変化したためかなり傾いている。 この時代は窓税として窓の大きさに対して課税されたと言うことで、窓が小さいのが特徴だ。
真ん中の黄色い建物の「次兄」の時代は窓税がなくなったため「兄」に比べて窓の大きい見栄えのする造りだが、その後「弟」の時代(17世紀)になると、今度は「間口税」が課せられたため、間口の狭い窮屈な作りになっていると言う。
その後は「リガ城」を見学した。
*リガ城:1297年から1330年にかけてリヴォニア騎士団とリガ市民との間に激しい衝突が起こり、敗北した市民は破壊された最初の城(現在の工芸博物館あたり)の代償にこの城を建てさせられた。騎士団長は1470年までここに住み、その後ヴィリヤンディ(南部エストニア)、ツェースィスに居を構えた。(「地球の歩き方」より)
その後、ポーランド、スウェーデン、ロシア、と支配者が次々と変わって行ったと言う城だが、その城の前に着いて、「ここがリガ城です」と言われても、濠はないし外壁にやたらと窓があるしで、とてもここが城だとは思えないような印象だった。
それは外敵から守ると言う構造になっているようには見えず、ごく普通の建物にしか見えなかったためだ。
長い歴史の中で、城としての役割は実質的には無くなって行ったと言うことなのかもしれない。
そしてその後は「スウェーデン門」を見学した。
*スウェーデン門:リガに唯一残るかつての城門。
1698年に城壁を利用して住宅が建てられた際に付け加えられたもので、当時向かい側のヤコブ兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく利用したのでこの名が付けられた。(「地球の歩き方」より)
旧市街には2kmの城壁と25の門、28の塔が設けられていて、日没になると閉め、夜明けになると開けていたと言う。
スウェーデンの支配下にあった時代には門の外に兵舎があり(写真の黄色い建物がそれ)、多くのスウェーデン兵がこの門を通って行き交っていたと言う。
その後は「火薬塔」に立ち寄った。
*火薬塔:14世紀に建てられ、1650年に再び建て直されて火薬の保管に使われていた塔。 高さ25.5m、外壁の厚さは3メートルになる。 外壁には17~18世紀にロシア軍の攻撃によって受けた7つの砲弾が埋め込まれている。(「地球の歩き方」より)
これは28あった言う塔の中で唯一現存する塔で、現在はラトビア軍事博物館になっていると言う。
この日は前を通るだけだったが、翌日のフリータイムの際に館内に入って見学した。
これは、ラトビア国内の町の紋章が描かれた壁。
日本で言えば、「市章」と言うところなんだろうか、、、それにしても町にこうした紋章があると言うのは、如何にもヨーロッパらしい。
・・・
以下、続く・・・。