午後4時。
落合橋を渡る。
途中で落合橋の上手を見ると二筋の川が合流しているのが見える。
それは、右手の「都田川」に左手から「井伊谷川」が合流しているところで、その二筋の川が合流していると言うこと、即ち「落ち合っている」ところに架かる橋と言うことで「落合橋」と言う名前が付いているらしかった。
そこで合流した川はその後は「都田川」として落合川の下を流れ、その先で浜名湖へ注いでいる。
と言うことで、そこから下手へ目をやると浜名湖が見える。
それは姫街道を歩き始めて、初めて目にする浜名湖だった。
そして、落合橋を渡った先でいよいよ気賀宿へと入る。
橋を渡り終えて100mほど進むと、天竜浜名湖線の高架下を潜る。
そこから200mほど進むと、気賀四ツ角の交差点に出る。
そこには、またまた静岡県内の東海道を歩いていた際に度々見かけた現代の道標があった。
その先右手にある「ノズエ時計店」の前には「気賀関所跡→」と書かれた案内板がある。
また、その店の敷地の一角には「史蹟 気賀宿址」と刻まれた石碑があり、その脇には「気賀関屋」と書かれた案内板が立っている。
それによると、気賀関屋は東海道三大関所の跡だと言う。
と言うことで、姫街道を歩いて来てここで初めて「関所」の痕跡が現れた。
東海道の浜名湖の西の新居宿に関所があって、「入り鉄砲に出女」と言う事情のために女性の旅人が関所を越えるのが大変厳しかった、、、と言うことで女性の旅人は東海道を避けて敢えて峠越えが続く厳しい山道の「姫街道」を歩いた、と言う話をよく聞くが、その姫街道にもこうした気賀宿の関所があったと言うことはどういうことなんだろうか。
気賀宿の関所は女性の旅人に対しても比較的厳しくなく通していたと言うことなんだろうか?
これも聞いた話だが、姫街道を利用する旅人が多かったため東海道の宿場の人達が「客が少なくなって困る」と言うことで、幕府に訴え出たと言うこともあったらしい。
そんな話をあれこれ聞いていると、東海道と言う正規の街道があるのに、姫街道と言う脇街道が存在し、かつそちらの方が多く利用されていたと言う理由は何だったんだろうと思う。
さて、それでその案内板に従って「ノズエ時計店」の脇へと進むと、そこは細い路地になっている。
(こんなところに関所跡があるって言うのか?)
と、少々不安になりながら進んで行くと、その路地の先で出たところは行き止まりのようになっていた。
そして近くには細江町教育委員会による案内板が立っていた。
それによると、その前に建っている建物は細江町指定建造物の「気賀関屋」で、慶長六年(1601)東海道本坂越(姫街道)の交通取り締まりのために設けられたものだと言う。
その建物は昭和三十五年まで残っていたが、現在の建物は関屋の正面に向かって左の部分三分の一で下の間・勝手の間の部分が残っていると言う。
と言うことで、その場から奥に見える建物に目をやったが、今一ぴんと来なかった。
実は最近ある街道系のテレビ番組を見ていた時に、東海道にあった旅籠の中で現役で営業している唯一の旅館である愛知県の赤坂宿の大橋屋が、来年3月をもって廃業すると言っていた。
それに当たっては、正面の部分など一部は文化財として残すらしいが残りは解体すると言うようなことを言っていた。
その話を聞いていて、それは正に現在の気賀関屋の状態と同じようなことになるのではないかと思った。
む~~、
ってことは、大橋屋も気賀関屋のような形で残されると言うことなのか、、、。
さて、その後は、実はそこから直線距離にして約600mのところ、気賀関屋からは南に向かって天竜浜名湖線の線路の向こう側、気賀駅を越えた先に、気賀の関所を再現した施設があったらしいのだが、そのことをすっかり忘れていて、立ち寄らなかった。
と言うことで、気賀関屋を後にして気賀宿の中を先に進んだ。
・・・
以下、続く・・・。