アウシュビッツ強制収容所
周囲には、鉄条網がめぐらされ、そこには高圧電流が流されていたと言う。
博物館として公開されているこの収容所には、28棟のレンガ棟が残っている。
第2次世界大戦末期にソ連軍が攻めて来た時、これらのレンガ棟を破壊・焼却するのが間に合わず、その結果こうして建物が残っているのだと言う。
それらのレンガ棟には、現在それぞれテーマに沿っていろいろなものが展示されていた。
入り口近くに立っていた説明板には、収容者達が毎日、近くの工場まで働きに出ていた時の様子や、音楽等のリクレーションを行っていたと言うイラストが描かれていた。
実際、働ける収容者は労働力として近くの工場で働かされていたと言う。
そして第5棟は、「ナチスが犯した犯罪の証拠」がテーマになっていた。
これは世界各国からこの収容所に集められて来たと言うことが書かれているパネルだ。
これによると、
ハンガリーから 430,000人
ポーランドから 300,000人
フランスから 69,000人
オランダから 60,000人
ギリシャから 55,000人
ボヘミア、モラヴィアから 46,000人
(これは現在のチェコのこと)
スロヴァキアから 27,000人
ベルギーから 25,000人
オーストリアとドイツから 23,000人
ユーゴスラヴィアから 10,000人
イタリアから 7,500人
ノルウェーから 690人
となっていた。
アウシュビッツに収容されていたユダヤ人は、ほとんどがポーランドから連れて来られたと思っていたが、それはとんでもない誤りだった。
この部屋は、入口に「THE ROAD OF DEATH」と表示されていた。
これはその部屋に掲示されていた、収容所周辺の図だ。
右下の線路沿いに小さく描かれているのが「アウシュビッツ強制収容所」だ。
それに対して、線路を挟んで左側に描かれているのが「ビルケナウ強制収容所」で、規模の大きさが全然違うのがわかる。
強制収容所としてはアウシュビッツの名前が有名だが、実はビルケナウの方が圧倒的に大きかったのだ。
これは、ガス室で使用された「チクロンB」と言う毒薬が入っていた缶だ。
こうしたものも残っていたと言う。
その他には、収容された人達から集められたメガネや鞄、食器等が展示されていた。
鞄には誰の持ち物だったかがわかるように名前が書かれていたが、それはここを出て行く時にちゃんと持ち主に返すからと言うことで書かせたものだと言う。
収容者達に希望を持たせたのだ。
また食器が大量に持ち込まれたと言うことは、「新たな場所で生活をするから」と言う口実でこの収容所に集められて来たと言う。
とにかく、ドイツ軍が占領した地域で設定していたゲットーで暮らしていたユダヤ人を言葉巧みに、ある意味自主的に、そして半強制的にこの収容所に連れて来た様子が伺える。
ここは収容所の南の角に位置しているところにある「死の壁」と呼ばれる場所で、公開で銃殺刑が行われたと言う。
その壁のところには、今でも花がたむけられていた。
ここは6号棟で、囚人が生活していた様子を再現していた棟だ。
ベッドで生活出来た人はまだいい方だったようだ。
その他、ガス室や焼却場、飢餓室等も見学したが、とにかく、ナチス・ドイツが行ったことをその現場で見ることが出来た。
いやぁ~~~、
しかし、何とも言えないなぁ~~。
・・・
以下、続く・・・。