ショプロンの旧市街の見学を終えた後バスに乗って出発すると、20分ほど走った辺りで「ヨーロッパ・ピクニック計画記念公園」に着いた。
そこはハンガリーの国土からちょこんとオーストリア側に飛び出している小さな半島状の北側の根元に近い場所で、その東側にはハンガリーとオーストリアの国境にまたがるフェルトゥー湖があった。
その場所が社会主義崩壊へのひとつのきっかけになった場所と言うことだった。
*ヨーロッパ・ピクニック公園:フェルトゥーラーコシュ近くのオーストリアとの国境は、ベルリンの壁崩壊のきっかけとなった「ヨーロッパ・ピクニック計画」の舞台として知られる。
ハンガリーはほかの東欧諸国より早く、1960年代後半から徐々に民主化政策を進めていた。ソ連のペレストロイカにより民主化への波が加速していた1989年8月19日、オーストリアとの国境が一時開放され、1000人もの東ドイツ市民がハンガリーからオーストリアを経由して西ドイツに亡命する事件が起きた。この出来事(ヨーロッパ・ピクニック計画)が引き金になり、社会主義崩壊へと繋がった。
その場所は現在、ヨーロッパ・ピクニック計画記念公園となっていて、記念のモニュメントや平和の鐘があるほか、国境に張り巡らされていた鉄条網の一部やヨーロッパ・ピクニック計画について解説する展示パネルがいくつもある。今からほんの二十数年前に起こった出来事だ。(「地球の歩き方」より)
それほど広くない道路はその先真っ直ぐ続いていたが、そこは今でも国境となっている場所だった。
しかしシェンゲン協定のために、現在ではほとんどフリーで通れるようになっていて、以前はそこで何某かの検問が行われていたと言う痕跡だけがあった。
もうすぐこの先は、オーストリアだ。
道路から一歩公園側に入ったところには、緩衝地帯の跡が残っていた。
その先は公園になっていて、
その中には記念碑が建っていた。
この記念碑、ガイドのエヴァさんには「出来がいまひとつ」と、評判が悪かった。^_^;
また、我々の他にも、どこの国の人達だろうか、この国境を見学しに来ている人達がいた。
1989年にここを通って西ドイツに亡命した東ドイツの人達は、一体どんな思いだったんだろう。
こうして公園になっている場所を見ただけではなかなか伝わって来ない当時の複雑な事情がいろいろあったと思う。
国境を開放したハンガリーもすごいと思うが・・・。
以前、ドイツに行った時に旧東ドイツだったライプツィヒを訪れたことがあった。
そのライプツィヒもベルリンの壁の崩壊に繋がった学生達のデモ(月曜デモ)が始まった町と言うことで大きな役割を果たしたと聞いた。
こうしたことが、当時の東側と言われた国の中でいろいろと行われていたんだろう。
またルーマニアの首都ブカレストの革命広場を訪れたことがあるが、その時はチャウシェスクの演説が市民の声にかき消され、彼の表情がみるみる変わって行ったあの映像を思い出した。
あれからまだ25年しか経っていないのか・・・。
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ヨーロッパ・ピクニック公園を出てバスで20分ほど移動すると、今度は「フェルトゥーラーコシュ」と言う湖のところに出た。
*フェルトゥーラーコシュ:ハンガリーとオーストリアの国境にまたがる、ヨーロッパ最大の塩水湖フェルトゥー湖。野鳥の生息地として知られているこの場所は、異文化が出合う土地であったことから独特の景観がつくられ、ユネスコの世界遺産に登録されている。
湖畔の町、フェルトゥーラーコシュでは、ローマ時代から1948年まで使われていた採石場の跡が見られる。興味深いことに、石壁にはかつてこの場所が海だったことを物語る貝殻の層を目にすることが出来る。夏場になると採石場内の劇場でクラシックやオペラなどのコンサートも開催される。(「地球の歩き方」より)
このフェルトゥー湖(オーストリ語ではノイジートラー湖)の文化的景観は、2001年に世界文化遺産に登録されているが、夏場は海水浴場として賑わっていると言う。
海がない内陸国としては、「海」として貴重な場所になっているのだろう。
そして湖がオーストリアとハンガリーの国境になっていると言うことで、共産政権時代の1950年代にはハンガリー側からこの湖を泳いでオーストリア側に亡命しようとする人達がいたようだが、溺れて命を落とす人も多かったと言う。
それにしても世界遺産だと言うのに、我々の他に人っ子一人いない状況に、何だか訪れていて寂しい思いがした。
(*画像は、夏場には大活躍したシャワー室で、左手に湖が広がっている。)
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以下、続く・・・。