二日目は、三戸を出発して十和田まで歩いた。
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三戸では、いわて銀河鉄道の三戸駅前の清水屋旅館に泊まった。
それで朝食を摂るべく朝の6時半に食堂に行くと、私の他に何人もの男性客が入れ替わり食事に来ていた。
その人達は2~3のグループの人達のようだったが、見た感じではどの人達も何かの工事関係者のようだった。
青森県の三戸の町。
奥州道中歩きと言う、街道歩きをしていなければ訪れることはまずなかったと思われる町は、恐らく有名な観光地ではないだろうから、そこで旅館やホテルを営業するのはなかなか難しいだろう。
しかし、そうした町でも観光客以外にも宿泊を必要とする需要はある訳で、この日の朝、食堂で食事をしていた人達は、そうした観光以外の目的で三戸に泊まった人達だったんだろう。
それを思うと、恐らく観光地としてはそれほど有名ではない町のこうした宿泊施設は貴重な存在でなくなっては困る存在だと思う。
そんな宿の朝食の現場での私の存在はもしかすると「異質」に見えたのかもしれない。
食事の際に食堂に顔を出した女将さんから「三戸にはお仕事ですか?」と聞かれたので、咄嗟に「歩いてます。」と答えてしまった。
すると、女将さんは「奥州街道を歩いているんですか?」と聞いて来た。
それで、「はい、昨日は二戸から歩いて来ました。」と言うと、「あ、それなら・・・」と言って食堂を出てからちょっとの間を置いた後、何やら資料を持って現れた。
それは、ひとつは、三戸宿から高山へ向かうルートの地図だった。
聞くところによると、三戸から先の旧奥州道中のルートは山の中に入るので歩くのも厳しそうだった。
そしてもうひとつは、青森県南部町の「国・県指定 国登録 文化財ガイド」と書かれたちゃんと印刷された資料だった。
宿泊した清水屋旅館は三戸駅前にあったのだが、実はそこは三戸町ではなく南部町だったのだ。
そしてそのことで気が付いたのだが、青森県と言えば江戸時代の津軽藩と南部藩で、そのひとつの南部と言う伝統のある名前を三戸駅近くのこの町の名前としてしまっていると言うことに驚いた。
ま、それはそれとして、いただいたその資料を見ると、南部町には結構多くの文化財があるではないか!?
ならば可能な範囲でそれらの文化財を訪れたいなと思ったが、今回は文化財を巡る観光の旅ではなく、奥州道中を歩くと言う街道歩くの旅なので、それらの文化財はスルーして先に進むことにした。
街道歩きを楽しんでいる人にはいろいろな歩き方があるようで、出来るだけ寄り道はしないでとにかく歩くと言う人、またせっかく歩くのだから街道沿いにある史跡や文化財は訪れたいと言う人、また街道沿いにある名物料理は出来るだけ食べたい、、、など、いろいろあるだろう。
私の場合は、江戸時代の人が歩いて旅したルートを歩くと言うのが基本的な考えなので、史跡があるとは言っても旧街道を外れて1kmも歩くと言うことはほとんどしていない。
旧道を歩くと言うことがメインなのだ。
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と言うことで、清水屋旅館の女将さんからせっかくもらった資料だったが、南部町の史跡にはほとんど立ち寄ることなく先に進んだ。
しかし、もうひとつの、三戸の先の高山を越えるルートの地図は大変役立った。
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以下、続く。