第四日目 3月11日(火):その1
ペトラ:その1
この日は、今回の旅の最大のハイライト
「ぺトラ遺跡」の終日観光だった。
ホテルは遺跡のすぐそばで、歩いて行ける距離にあった。 と言うこともあってか、朝の出発は9時と言うことで、のんびりと朝を過ごすことができた。
(ホテルを出発、ペトラ遺跡に向かう)
ホテルを出てゆっくりと歩いて5分、メインゲートを入ると、そこからがいよいよぺトラ遺跡だ。
まずは、左手に馬が待機している場所があった。
希望者はそこから馬に乗ってその先の
「シーク」を通って
「エルハズネ」まで行くことができると言う。
そこでは
馬を巧みに操っているアラブ人(恐らくベドウィン)が観光客に向かって「乗っていかないか」と言うような声を掛けていた(と思う、、、何せ、アラブ語はわからないもんで・・・)。
この遺跡では、入場に際しては入場料の他に
「馬代」と言うことで10ドルを支払うことになっているらしかった。
と言うのは、元々この地にはベドウィンが住んでいたが、1985年以降遺跡の保護するということで住むことができなくなったために、彼らにこの地での営業を許可し彼らの生活を守ると言うことで「馬代」を取っていると言うことだった。
馬に乗るベドウィンの傍を通ってその先へ歩いて行くと、左手に
「オベリスクの墓」が見えてきた。
その先右手には、
大きな四角い柱( → )が建っていた。
その柱は、ぺトラに悪いモノが入って来ないように置かれていると言うことだ。
入口から800mほど歩くと、その先がシークへの入口となっている。
(シークの中へ向かう)
シークとはぺトラ遺跡の最大の見どころ「エル・ハズネ」に向かう途中にある、1.8kmの切り立った断崖に挟まれた秘密の道のことだ。
さて、このシークが映画に使われて印象に残っているシーンと言うのが、
「インディ・ジョーンズ:最後の聖戦」の中で父親役のショーン・コネリーとハリソン・フォードが馬に跨って狭い渓谷を走り抜けると言ったシーンだ。
うぉ~!(*_*) やったぁ~!ヽ(^o^)丿
今、正に、あの場所にやって来ていると言うことだ!
そして、この緩い坂を下って行くと、いよいよ
シークの入口だぁ~!(*_*)
一歩一歩シークの中を進んで行く度に目の前に現れる光景に、その都度息を飲んでしまった。
天上にまで達しようかと思われる
壁、壁、壁。
時々、前から後ろから、客を乗せていない馬車がまたある時は客を乗せて駆け抜けていく。
この辺りの壁をつくる岩は、砂岩で出来ていると言うが、途中、色鮮やかな縞状の模様が壁に見えたが、それは様々な鉱物が層をなしているためにできた模様だと言う。
途中には路面に四角い石を敷き並べた部分もあったが、それはここがローマの支配下にあった当時に整備されたものと言う。
ローマの力はこんなところにまで及んでいたのか・・・?
そんな中を歩いていると、あたかも壁の向こうから、インディ・ジョーンズが駆け抜けて来るのではないかと想像してしまう。
そんなシークも、入口から所々で説明を受けながらゆっくり40分ほど歩いて行くと、道幅が更に狭まって両側の壁が狭まって来ているところに出た。
すると、その壁の間から向こうに何やら薄ピンク色に色づいたものが見えてきた。
(エル・ハズネ)
(もしかして・・・)
と思って、その壁の間を抜けると、急に視界が広がって、そこには、何と!!
こ、これが、あの!!
エル・ハズネかぁ~!!(*_*)
言ってみれば、こんな山奥に、、、隠れ里のようなところに、こんな遺跡が残っているなんて・・・。
しばし、その場で呆然としてしまった。
*エル・ハズネ:エル・ハズネは崖を削り、彫りぬいた神殿風正面を持つ霊廟で、幅約30m、高さ43m。 紀元前1世紀~後2世紀のもので、映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台ともなった。(「地球の歩き方」より)
もう、この遺跡を前にしては、何も言葉が出なかった。
この遺跡を見る他のあるツアーでは「バラ色のぺトラ~」と表現していたが、正に「バラ色」だ!
時間によっては、光の加減によってはバラ色に映えることもあるそうだ。
さて、驚いているばかりでは先に進まない、、、と言うことで、この遺跡を前にして、添乗員さんからはこの後20分、フリーの時間として各自見学してくださいと言うことになった。
そこでまずはこの遺跡の回りで写真を撮ったりした後で、中に入って見ることにした。
中は、思ったほどではなく、大きくくり抜かれている部屋があるだけだった。
しかし、これほどの遺跡を掘って造ったナバテア人とはすごい民族だな、と思った。 現代の話じゃなくて、紀元前の話・・・。
と言うことで、
「ナバテア王国」について、、、
*ナバテア王国:
①起源 ナバテア人は元来北アラビアを起源とする遊牧民族であり、羊の放牧や盗賊稼業、貿易などを行いながら、当時エドム人が居住していたペトラを塒に生活していた。紀元前4世紀前後には1万人弱だったナバテア人の人口は紀元前2世紀頃になると20万人近くに膨れ上がり、深刻な人口増加問題を抱えるようになる。もはや遊牧生活では立ち行きが難しくなったナバテア人はその頃から定住生活に移行を始め、エドム人の住むペトラに腰を落ち着けるようになり、ナバテア王国が誕生した。
②歴史 もともと馬を使った貿易を行っていたナバテア人の定住により、シルクロードの通商上の要所でもあったペトラは、隊商都市として繁栄を極める。優れた潅漑・貯水機能を有し、砂漠の都市にも関わらず水に不自由することは無かったという。交易により巨万の富を築いたナバテア王国は紀元前1世紀頃よりその隊商路に沿う形で領土を拡張していき、紀元後1年のアレタス4世の時代にはその領土をダマスクスからヒジャーズ地方までの砂漠周辺部とネゲブ地方まで広げ、メソポタミア、南アラビアから地中海にいたるほぼ全ての隊商路を掌握した。
しかし、紀元前63年にローマより攻撃を受け属国化する頃から次第に国力が衰えていき、106年には首都として機能していたペトラをローマに占領される形となり、アラビア属州に併合された。海路の発達と、363年に発生した大地震の影響からペトラ自体も隊商路として機能しなくなり、その機能をパルミラに移す形で次第に表舞台から姿を消す事になる。その後1812年にスイス人ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによりペトラ遺跡として紹介され、1958年からイギリス・アメリカの合同調査隊がペトラ遺跡の発掘調査を実施し、ローマ時代以前のペトラについて明らかにされることとなった。(「Wikipedia」より)
さらに、添乗員さんの説明によると、
ナバテア人とは、アラビア語の「ナバタ」=水を掘り出すと言う言葉に由来。 現在のイエメン辺りに住んでいた遊牧民であったと言われている。 大旱魃により北上。 ぺトラに都を築く。 主に交易とラクダキャラバンの手配で富を得る。 BC1世紀頃が最盛期。2世紀にぺトラがローマの属州になり、段々衰退・・・。
と言うことだった。
さて、ここで
初めての集合写真を撮った後は、その先に進むことになった。
(注:今回利用したツアー会社では、撮影した集合写真は、1枚1,000円とか10ドルとか言う有料ではなく、無料で後日ツアーが終わった後送られてくるようになっていた)
そこから少し歩いて行くと左手には
「ナバテア人の墓」があった。 その先見通しのいいところではぺトラ土産の
瓶入りの砂絵を作っている店があった。
希望によれば、本人の名前を入れて作ってくれると言う。
この店、人気があるようで他所の国の観光客でいっぱいだった。
そして、その辺りの広くなっていた場所の周辺には、3,000人が収容されたと言う33列も階段がある
「ローマ劇場」があり、そこの向いに見える崖の中腹には
「アーンの墓」、「シルクの墓」、「コリンシアンの墓」、「宮殿の墓」が並んでいるのが見えた。
そして、それらが見渡せる広場で我らは
小休止となった。
時刻は11時半を過ぎていた。 ホテルを出てから約2時間半。 ぼちぼち疲れが感じられる頃だった。
広場には、仮設のトイレが設置されていてトイレも使うことができていたし、崖の中腹に並ぶ4つの墓を見学することもできたが、さすがに足に疲れを感じたので広場の周辺にある大きな岩のひとつに腰を下して休憩してその時間を過ごすことにした。
そして再び歩き始めると、その先では比較的まっすぐに続く道が現れ、そこは
「列柱通り」と呼ばれていて当時は道の左右に柱が並んでいたと言う道が続いていた。
路面も石畳が敷かれ、これぞ正に
ローマの影響をすごく感じるところだった。
その先左手上には
グレート・テンプル(大寺院=ゼウス神殿)が残っていて見事だった。
そして列柱道路を挟んだ向かいの丘の上には
「ライオン神殿」が建っていた。
(ガイドさんにライオン神殿の名の由来を聞いたがわからないとのことだった)