第二日目 5月17日(土):その2
ウィーン旧市街観光:その2
世界遺産 シェーンブルン宮殿
ベルヴェデーレ宮殿前からバスで約10分ほど移動すると、今度はシェーンブルン宮殿の前にやって来た。
シェーンブルン宮殿と言えば、オーストリアを代表する世界遺産のひとつで、オーストリアを訪れるツアーにはほとんど必ず入っている観光地だ。
バスから降りて外側の建物に沿って歩いて行くと、正面の門に出た。
そこから中に入ると、目の前にはたっぷりとした空間が広がり、
その向こうに宮殿が見えていた。
(あれが、シェーンブルン宮殿か・・・)
この宮殿は、「入場見学」の予定となっていたので、向って左手の入口から内部に入って見学することになった。
*シェーンブルン宮殿:17世紀初頭、皇帝マティアスが狩猟用の館の近くの森で、おいしい水が湧き出す「美味しい泉Schoner Brunnen(シェナー ブルンネン)」を発見したことから、シェーンブルンと言う名がついた。
その後、皇帝レオポルド1世が、ベルサイユ宮殿をしのぐ大規模な宮殿づくりを、建築家フィッシャー・フォン・エアラッハに命じたが、財政難などで計画は縮小された。 後に1743年女帝マリア・テレジアの命で行われた大改築を経て、今日見るような姿になった。 女帝の末娘マリー・アントワネットは15歳でフランスに嫁ぐまでこの宮殿で育った。 6歳のモーツァルトが女帝の前で演奏を披露し、マリー・アントワネットに求婚したと言う逸話も残る。
ナポレオンがウィーンを占領した際はこの宮殿を宿舎とし、失脚後は映画「会議は踊る」で有名なウィーン会議の舞台となった。
ハプスブルク家最後の皇帝カール1世は、ここで1918年に退位文書に署名、翌日宮殿はオーストリア共和国のものとなった。(「地球の歩き方」より)
ベルサイユ宮殿を凌ぐ規模の宮殿と言うだけあって、宮殿内には
1441の部屋があって、そのうち皇帝や家族の部屋や広間からなる
2階部分が公開されている。
宮殿内の見学はツアーごとに動くようになっていて、
小さい部屋では1グループしか入れないようになっていた。
次の部屋にまだ別のグループがいると前の部屋で次の部屋が空くのを待つ、と言う形で見学するようになっていた。 中には立ち止まって見学してはいけなくて歩いて通過しなければいけない部屋もあり、そんな部屋には係りの人が待機していていた。
館内の写真撮影はできないようになっていたので画像はないが、見学した館内には次のような見所があった。
(掲載している画像は、7ユーロで買ったガイドブックから転用)
1.大ギャラリーの間
:2階に上がってすぐの部屋。 部屋の中に入るとその部屋の大きさに圧倒されてしまった。 長さ40m、幅10mのこの部屋は、舞踏会、レセプション、晩餐会などに利用されていたと言う。
天井いっぱいに広がるフレスコ画はイタリア人画家のゴレゴリオ・グルミエの作品で、入口の方から
「平和」「栄光」「戦争」と3つの場面を描いていると言う。 その「戦争」の絵の部分には第二次世界大戦中、アメリカ軍が落とした爆弾当たって破損したらしい。
1961年には、ここでJ.F.ケネディとN.フルフチョフとの会談も行われたと言う。
また、この部屋の中にはたくさんの大きな花瓶が置かれていたが、その2割は日本製とのことだった。
ところでこの部屋に入った瞬間、
ベルサイユ宮殿の鏡の間を思い出してしまった。 それくらい、豪華な装飾が施されている印象を持った部屋だった。
2.馬車行列の間
:
マリア・テレージアとフランツ1世シュテファン・ロートリンゲン謁見のための待合室。 部屋の名前は、ホーフブルク乗馬学校で1743年に催された貴婦人の馬車行列の絵が飾られていることに由来する。
馬車に乗ってたくさんの貴婦人達が円を描くように回っている様子が印象的だった。
3.セレモニーの間
:皇帝フランツ1世謁見の際、第二の控えの間として使われた他、家族的なセレモニーの舞台となった。 マリア・テレージアが食事をしていたと言う部屋である。
乳白色を基調とした上品な部屋で、
天井には金色に彩られた槍、トロフィー、軍旗などの戦争をモチーフにした装飾が飾られているため、以前は「戦いの間」とも呼ばれていたらしい。
4.駿馬の間
:セレモニーの間から覗くことができる部屋で、ここには1852年の規範に則って、いわゆる元帥の正餐における食卓調度が再現されていた。
この部屋は、
一般に貸し出されていると言うような説明があった。(お金のある人は借りてみてください、と言う感じで・・・)
この辺りで見学客が段々と増えてきたようで、後ろのグループが我らが見学をするのを常に前の部屋で待っているようになっていた。
我らのガイドさんは、案内をしながらそれでもマイペースを守り、しっかりと案内をしてくれていた。
後ろのグループは、日本の阪急トラピックスのバッチをつけているグループでガイドさんは日本人ではない男性だった。
我らのガイドさんは「後ろのグループは随分と早いですねぇ~。案内すること、ないんでしょうかねぇ。」などとぶつぶつ言いながら、それでの自分のペースを守って、案内をしてくれているようだった。
それにしても、我らの次の部屋に移ろうとすると、まだ次の部屋には前のグループがいる、と言うこともあった。
さすがにシェーンブルン宮殿は観光客が多い施設だ。
5.青の中国風サロン
:1806年にライスペーパーと呼ばれる中国製の稲わら紙の壁紙が張られた。 これには植物と中国の農村の生活がモチーフとして描かれている。
壁に均等な間隔で整然と張られていた長方形と楕円形の青い壁紙が印象的だった。
6.漆の間
:マリア・テレジアによって夫のフランツ1世シュテファンの死後、その思い出の部屋として設えられた部屋。 壁には、もともと中国から取り寄せられた屏風、東洋のモチーフが描かれた赤い漆板が飾られている。
この部屋は、
漆をあちこちに施しているためか、全体がしっくりとした落ち着いた感じだった。 漆の色と金色に飾られた飾りはよく似合うものだ。
7.ナポレオンの間
:1805年と1809年に、
ナポレオン・ボナパルトが寝室として使った部屋。
8.百万の間
:1767年に完成したこの部屋は、100万フローリンが支払われた。
この部屋にある左右の鏡は1mmずつずらしてあるために、奥までずぅ~~っと続いているように見えると言う。 そう言えば、鏡の中を覗くと、すごく奥行があるように見えた。
9.磁器の間
:マリア・テレジアが書斎兼遊戯室として使っていた部屋。 磁器を模した壁の模様として、青の顔料で描かれた213枚の絵は、フランツシュテファンとその子達の作品。
部屋の壁全体に大小様々な磁器で出来た板が貼り付けられているように見えたが、そのほとんどが顔料で描かれていたものとは・・・。
その中で
本物の磁器は3点だけ、と言うことだった。
その後は、
ゴブランの間、
ライヒシュタット公記念の間、
赤のサロン、
東側テラスの小部屋を通って、
寝室を見て、見学を終えた。
2階にはまだまだたくさんの部屋があったが、我らが見学したのは西側半分だけだった。
東側には
「小ギャラリーの間」「鏡の間」「マリー・アントワネットの部屋」「黄色のサロン」「子供部屋」「衛兵の間」など様々な部屋があったが、残念だ。
恐らく、これらの部屋全部を見学していると、午後からのスケジュールに支障を来たすために割愛したと言うことだろう。
何しろ、
8日間(実質オーストリア滞在は5日間)のツアーで世界遺産全部を見ると言う盛沢さんのツアーなためにやむを得ないと言うことなんだろう。
40分ほどの宮殿内の見学を終えると、その後は
30分のフリータイムと言うことになった。
そこで宮殿の入口があった方の反対側に出ると、そこは広いスペースになっていて、遠くには、、、恐らく1~2kmくらいのところには、
巨大な壁?のような建物が見えていた。
それは
「グロリエッテ」と呼ばれる建物で、1775年に建てられた軍事的な建物と言うことで、
歩いて行くと20分くらい掛ると言う。
そのためそこまではさすがに歩いて行くことはできないと思ったので、その途中にある
「ネプチューンの泉」まで歩いて行くことにした。
しかし、広い宮殿の敷地だった。 ネプチューンの泉の他にも敷地内には、「日本庭園」や「動物園」もあると言うことだったが、とても寄ってみる時間もなかった。
まぁ、また個人的に来る機会があったらその時にゆっくりと散策すればいいか、と思って、ネプチューンの泉から宮殿まで戻った。
ところで、この宮殿は、ウィーン市内の住宅事情と言う問題があるために、
一般市民にも276室が賃貸住宅として貸し出されていると言うことだ。
ガイドさんの説明によれば、
1部屋10万円弱とのこと。